その時、筆者は休憩中で、会社の更衣室にいた。突然ガタガタと揺れ出して、しかしあまり恐怖を感じることはなかった、「結構長く揺れとるな」とは思ったが。ようやく揺れが収まったのを確認すると、筆者は更衣室を出た。大きな地震の時に流れる非常放送があったので、売場の状況を確認する為だった。それでも正直に言えば、この時点でもそれほどの緊迫感は感じていなかった。「ちょっと様子を見て来るか」、その程度の感覚だった。どれ程のことが起こったのか、また起ころうとしているのか、筆者は全く呑気だった。
この放送を筆者が聞いたのは、2004年秋の新潟沖地震の時以来だった。あの時は確か土曜の夕方で、お客も結構入っていた。お客の誘導と、当時担当していた液晶テレビが倒れそうでヒヤヒヤしたのを覚えている。それに引き換え、この時は平日金曜の昼過ぎ、大したことはないと思いながら、売場に戻るとまた揺れた。更に一回、これはさすがにただ事ではない、筆者もようやく事態の深刻さを認識した。
とりあえず為すべきことは、お客の避難誘導と売場の状況確認。誘導の方は他の社員に委ね、筆者は状況確認に回った。電球、食器が少し落ちて、割れていたが大したことはなく、それによるケガ人もなかったのは幸いだった。
割れ物を片付けながらも揺れは続く。誘導は完了したが、営業を停止したわけではなく、お客は新たに上がってくる。ずっと揺れ続けているわけではないから仕方ないのだが、店の旧式エスカレーターは最初の揺れで止まってしまっており、みんな階段を上がる要領で上がってくる。来た以上、買い物はして帰ろうという魂胆なのかなと思っていたのだが、あとでわかったのは、実は近くの競合店が被害甚大で早々に店を閉めてしまっていた。更にこれは結果的にはすぐに復旧したのだが、周辺のガス供給も一時的にストップした。今夜の食事の確保が心配になって、どうやらみんな惣菜や弁当、更にはガスボンベを求めて、当店に駆け込んで来たらしかった。
そうこうしているうちに、少しずつ情報が伝わってきた。一度目の地震は震度5、震源地は東北南部で、地震そのものの被害もさることながら、津波の心配もあるようだった。ばたつく状況の合間を縫って、筆者は店頭の公衆電話に走った。ずっと気になっていた自宅に連絡を入れる為、こういう時に携帯が何の役にも立たないのは「常識」である。
妻とはすぐにつながった、幼稚園に行っていた次男を車で迎えに行き、自宅に上がった直後に揺れたのだという。長男はたまたまこの日は一斉下校の日で、校庭に集合している最中のことだったそうだ。いつものように同級生とのんびり帰って来ていたら、どうなっていたか。妻がすでに連絡をとってくれていて、筆者の実家、妻の実家も共に無事が確認できた。とりあえず安心して電話を切った。
戻ると情報がまた入った、電車関係はすべてストップ、特にJRは既に終日運休を決めたという。これで筆者の帰宅する術は失われた、会社はすぐにホテルの手配に動いてくれたが手遅れだった。あとは会社に泊まるか、それとも歩いて帰るか。翌日が休みなだけに考えどころであった。
政府は無理して帰宅しないように呼びかけたようだが、翌日が土曜日なのがミソだっただろう。なんとかして帰りたいと言う心理が働くのは仕方なかったのではないか。食べ物やボンベが底をつく頃、仕事帰りのサラリーマンやOLが今度は靴を求めて、現れるようになった。しかし残念ながら当店は靴の扱いがない、そろそろ客足も遠のき、自分のことを考える時間になって来たようだ。
残留組が他に10人ほどいることもあり、筆者は無理をしないことにした。寝泊まりする施設があるわけではないが、こういう時に小売業はモノに困ることがないのが強みだ。閉店してから、上司、同僚3人と食事を取りに出る。食品担当の中には抜け目なく、自分の分の食料をちゃっかり確保していたのもいたようだが、我々にはその余裕がなかったのだ。
これまで館内に閉じこもっていて、わかっているようで、世の状況が分かっていなかったのだが、街道沿いを途切れることなく、人の流れが郊外を目指して続いている。まさに人民大移動、その異様な光景に、否応なく非常事態という現実が迫ってくる。
更に困ったことに食事が摂れる所がない。長蛇の列か、売れ切れ閉店か、どちらかしかないのだ。最悪売り物のポテトチップでもかじって、飢えはしのげるとは思っていたが、できれば避けたい。ようやく焼ソバならという中華料理屋が見つかった時は、正直ホッとした。
店に戻った時には既に11時を回っていた。店に居残っていた連中は、テレビのニュースに釘付け、被災地の悲惨かつ壮絶な状況を刻々と伝えていたが、筆者は見るに忍びず、自宅と実家に連絡を入れ、休むことにした。
寝るところはないのだが、今度は筆者がちゃっかり売場のお試し用ベッドを確保してあった。他の寝具も売場から調達し、非常灯だけが輝く中で、1人ゆっくりと眠りについた・・・がやっぱり揺れる。妻からも不安を訴えるメールが入ってくる。幼い子供達と3人の夜、ただでさえ大の地震嫌い、いざと言う時の為に、いつでも外に飛び出せるように雨戸も締めず、結局眠れぬ夜を過ごしたようだった。
こちらはいつのまにか眠ったようだが、なんか耳をつく音に目を覚ました、携帯を見るとまだ午前5時。どうやらレジのインバーターが稼働したらしい、しかし周りが静かだとこんなにうるさいものなのか、神経も高ぶっていたのだろうが、結局その後は眠ることはできなかった。
繰り返すが、筆者は本来はこの日は休日。交通網が復活すれば、早々に御暇したかったのだが、納品は遅れ、社員の出勤もままならずといった状況を見ると、知らん顔もできず、結局なんだかんだと「御奉仕」し、会社を離れたのは結局もうお昼近かった。
JRは平常運転と聞いていたのだが、とんでもない。上野駅はどこまで続いているのかもわからない行列、入場制限がなされていて、とにかく駅に入れないのだ。なんの情報も案内もないまま、1時間半ほど立っていたが、たまに列は進みはしても、改札口は遠く、一体いつになったら電車に乗れるのか、全く見当もつかない。ちょっと先にあるビジネスホテルが目に入る、こうなったら面倒くさい、泊っちまうかと思い始めた時、ハッと気付いた。地下鉄が動いている、私鉄も動いている・・・らしい。ということは遠回りにはなるが、実家には帰れる、今まで家に帰ることばかり考えていて、全くそこに頭が回らなかったのは迂闊の一言。ようやく、活路が見え、筆者は勇躍列を離れた。
妻に状況を話し、今夜も帰れないことを詫びると、筆者は実家に向かった。こちらのルートは全くスムーズ、聞けばもう前夜の内からこちらは復旧していたそうで、それならあんな不自由な思いをしなくて済んだのだが、近くに住む義妹と姪、更には偶然来合わせていた1人暮らしの叔母も前夜は泊まって、実家は俄か避難所の様相を呈していたらしく、やっぱり筆者の居場所はなかったかもしれない(ちなみに弟はやはり朝帰りを強いられたそうだ)。実家に着いたのはもう4時過ぎていたか、何か食べるかという母の問いに首を振ると、筆者は布団に潜り込んだ。とにかくまずは眠りたかった。「普通に眠れる」ことのありがたさが身に沁みた。
翌日、交通機関は既に通常に戻っていた。一見何事もなかったような雰囲気だが、日曜だと言うのに、人がやけに少ない。通勤客がいないのは当然にしても、活気も華やかさもない。さすがに外出を控えているようだ。出社してもいつもより静かな日曜だった・・・夕方までは。それが急に雰囲気が変わる。あの光景というか、空気の変化は忘れられない。大袈裟でなく、人々(お客)の目が変わったのだ、それは今まで体験したことのないゾッとするような変化だった。
「紙」だった。紙、つまりトイレットペーパー、ティッシュペーパー、更に女性用の生理用品が周辺の店から姿を続々と消していた。しかしその時点で筆者の店にはまだあった、それを求めて客が集まりだしたのだ。これはウソか本当かわからないが「あそこにはまだある。」というメールが駆け巡ったのだという。更に乾電池、ガスボンベそして防災用品も、まもなく店頭から姿を消した。これらを求める狂奔劇が以降2週間程続くことになる。「集団心理」の恐ろしさを目の当たりにした思いだった。
その夜、筆者は2日振りに帰宅した。たかが2日、されど2日、出迎えてくれた妻の顔、更に寝ている2人の子供の寝顔を見た時はさすがにホッとした。無事でよかった、ただそれだけだった。
翌日からもいろいろなことがあった。ままならぬ通勤、薄暗い店内、そして計画停電、3月と言えどもまだ肌寒く、仕方なく家族揃って布団にくるまって、電気が付くのを待ったこともあった。物の供給がようやく、復旧して来ると今度は放射能、そして夏の電力不足騒動へと続いて行く・・・。
思いだすままに綴って来た、言うまでもなく筆者は「被災者」ではない。そんな筆者でもあの数日間、更にその後に続く日々で体験、見聞したことは「非日常」としか言い様のないことがたくさんあった。しかし、そんなものがどうしたと言わざるを得ないほど、筆舌に尽くし難い、どんな言葉をも軽くしてしまう壮絶な体験をされた方々が大勢いる。遠い彼方の話ではない、同じ日本人の、筆者の住んでいる地域からほんの数十キロの距離にいる人々に襲いかかった現実である。
そして2012年3月11日14時46分、あれから1年が経ったその時、日本全国で黙禱が捧げられた。政府がそれを呼び掛けた時、実は筆者は素直に受け入れられなかった。しかし、当日、筆者は職場でその時を迎えた。店内のBGMは荘厳なものに替えられ、その場にいた人々が一斉に頭を垂れたその瞬間の空気は、やはり犯し難い厳粛なものであった。被災者のみなさんの本当の苦しみはわからない、なんとか分かち合うこともできないのだろうか、そんなことは言うのもおこがましいことかもしれない。しかし、あの日を我々とて忘れることはできないし、決して忘れてはならないのだ。
日曜は朝からTVは大震災1年の報道一色だった。それに刺激されてだろうか、やはり防災コーナーへの人の付き方は尋常ではなかった。防災意識が高まることは悪いことではない、大自然の猛威の前に、儚い抵抗かもしれないが、少しでも悲劇を食い止める為の努力はするべきだ。
だかあの大震災の教訓、それは「地震はやっぱり怖い」ですませていいものなのか。東日本大震災が、あそこまでの大きな被害を出し、そして今も尚、多くの人々が苦難の日々を送っているのは「地震」「津波」「放射能」というトリプルパンチが現地を痛撃したからだ。そこから何を学び、そして何を今後に生かすのか。筆者が暗然とするのは
「阪神大震災の教訓を生かしきれなかった。」
という言葉を何度も聞くことだ。遅々として進まない被災者救済そして現地の復興、その上多くの犠牲者が残してくれた尊い教訓をまたしても、無為にするようなことがあったら・・・本当にこの大震災は何らの救いのない悲劇に終わってしまう。政府の無能、無為無策を叱咤、非難することはもちろん必要だろう。しかし、脱原発どころか、がれきの行き先1つ決まらない現実、自分自身が何をすべきか、何ができるのか、もう一度考えてみるべき時なのだということを今、改めて痛感する。
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