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2009年3月

2009年3月31日 (火)

ブラックマーチ

2008年度のA級順位戦は史上まれに見る激戦になると思っていたが、予想に違わぬ大混戦であった。最終戦を迎えて、名人挑戦者も2人の降級者も全く決まっていなかったのは、かなり久しぶりだったのではないか。

去る3日に行われた「将棋界の1番長い日」、A級順位戦第9局の一斉対局。中でも最大の注目カードは挑戦権をかけて争われた郷田ー木村戦ではなく、敗れた方が降級という文字通りのサバイバル戦となった谷川ー鈴木大戦であったことは間違いない。

言うまでもなく谷川は17世名人資格保持者、99年の中原誠以来、史上2人目の永世名人のA級陥落の危機だったが、勝負は早々に谷川勝利。谷川はさすがの底力を見せつけ、逆に鈴木大介八段は3年ぶりのA級復帰も、わずか1年でまたB1に逆戻りの憂き目を見ることとなった。

かくして、残る1人の降級は三浦弘行八段か深浦康市王位のどちらかに絞られた。前期は羽生現名人と挑戦者争いを繰り広げ、今期は自己最高位の2位まで順位を上げた三浦は、序盤は快調に飛ばしていよいよ今期は挑戦かと、思わせた時期もあったのだが、途中から一転連敗街道に突入、そして谷川が勝った少し後に、森内俊之九段に敗れ、3勝6敗。前期とは一転、首を洗って待つ身となった三浦は感想戦の最中、ずっと世界で僕ほど不幸な人はいませんといわんばかりの沈痛な表情のままであった。

筆者が仕事を終え、帰宅したのは12時過ぎ。上記2局は既に終わっており、少し経つと郷田ー木村戦は郷田真隆九段が勝って、2年ぶり2度目の挑戦権獲得。直接対決で郷田を叩いて、なんとかプレーオフに持ち込みたかった木村一喜八段は1歩及ばず、藤井猛九段に勝って、プレーオフ進出に望みをつないでいた佐藤康光棋王の夢も絶たれることになった(ちなみにキチンと調べたわけでないので、間違っているかもしれないが、ここ何年か、この将棋界の1番長い日を見ているが、藤井が勝ったのを見たことないような気がするのだが・・・)。

そして残るは深浦と丸山忠久九段の一戦のみ。対局が始まる時点では自力残留の目がなかった深浦だが、三浦が敗れたことにより、とにかく勝てば3度目のA級登場で初めて残留できる。昨年、羽生から王位を奪取、今年もその挑戦を返り討ちにしたほどの実力者が、なぜかA級戦では星が伸びない。過去2回は順位に泣いた不運な陥落だったが、今回はタイトルホルダーとして臨んだA級戦。無様な真似はできないはず、だったが・・・。

既に残留の決まっている丸山は、焦る深浦をあざ笑うかのように落ち着いた重厚な差し回し。そしてついに午前1時過ぎ、深浦投了。ここに史上初の現役タイトルホルダーのA級陥落が決定した。3回続けてのアタマハネでの陥落は確かに不運ではあるが、タイトルホルターとして3勝6敗の成績は褒められた内容ではない。

一方の三浦は土壇場で命拾い。A級在位今年で7年目の三浦だが、最終戦を待たずして、残留を決めたことが2度しかなく、常にきわどくA級の座を死守して来た。人呼んで「残留の神様」、まさに面目躍如と言ったところであった。

A級陥落の痛手を癒す間もなく、深浦には大勝負が待っていた。羽生に挑戦している王将戦、3勝2敗と羽生をカド番に追い込みながら、第6局を返されタイ。ここ2年の王位戦では羽生の猛烈な追い上げを跳ね返してきた深浦、ここで羽生を七番勝負で3タテして、2冠となれば、いよいよ深浦時代到来の第1歩を記せる。是が非でも負けたくない、はずだったのだが・・・。

最終局は終始羽生リードの展開。深浦も粘ったが、羽生の完勝と言っていい内容だった。王位戦で深浦に返り討ちに合い、竜王戦で渡辺に手痛い逆転をくらったものの、森内から名人位を佐藤から棋聖位を奪って4冠として、2008年度の戦いを終えた。もう1度7冠に手が届くかもしれない、そんな予感さえ抱かせる羽生の牙城はしばらくは揺るぐ気配はなさそうだ。逆に深浦には、なんともつらい3月、まさに「ブラックマーチ」となってしまった。タイトルホルダーの意地にかけて、またやり直しである。

深浦、鈴木に代わってA級に上がるのが高橋道雄九段と井上慶太八段という両ベテラン。高橋は5期ぶり、井上は実に10年ぶりのA級復帰、失礼ながら大万馬券と言っていい。この頑張りには心から敬意を表するが、今のA級の壁は厚い。結局今期も鈴木、深浦という昇級組が、そのままB1に送り返される形になった。彼らの健闘を祈るばかりである。

そしてこの両ベテランが抜けたB1級はなんとタイトルホルダーが、今日佐藤を破って、念願の初タイトルを獲得した久保利明棋王を含め3人が在籍する「豪華版」。逆に佐藤が7年ぶりに無冠に転落し、羽生4冠が順位戦に参加しないこともあり、A級順位戦は現時点でタイトルホルダーが1人も参加しないことになった。これも珍事ではないだろうか。

羽生時代はまだまだ続きそうだが、その一方で久保の初戴冠、佐藤の無冠転落、そして中原の引退、更にはこれまで先手番有利が当たり前であった将棋界の常識を覆すように、今期は記録をとりはじめてから、初めてプロの棋戦で後手番が先手番に勝ち越したのだそうだ。時は確実に流れている、そんなことを実感させられる将棋界の3月であった。

いよいよ「2008年度」は今日で終わりである。そして、それはむろん、将棋界だけのことではない。

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2009年3月30日 (月)

無駄な抵抗、無為な時間

しばらく政治のことを書かなかったのは、他に書きたいことが多かったこともあるが、千葉知事選が終わるのを待っていたからでもある。こんなヘッポココラムでも、下手なことを書くと選挙妨害を問われかねないのだそうだ。

前回、政治について書いた1ヶ月弱前の時点で、正直未だに小沢が民主党代表に居座っているとは思いもよらなかった。彼の今までの行動パターンから見て、とっとと投げ出すのは時間の問題だと思っていたからだ。

今の小沢は投げるに投げられないで、未練がましく指し手を進めている棋士と同じだ。敗北は目に見えているのに、どうしてもそれが納得が出来ずに投了できない棋士と同じである。

先日の小沢の涙の続投会見は内外から不評を買っているが、筆者は1つだけ理解できたことがあった。それはなにはともあれ、小沢という政治家が政権交代を悲願とし、それにより政治を変えようという思いを強く持っていることだけは間違いなさそうだということだ。それが目前に迫ったかと思われた矢先のこの騒動、小沢は無念なのだろう。しかし、だからと言って、筆者が小沢の続投を了とし、再起に声援を送るかと言えばそれは「ノー」である。

小沢にとって検察はある意味、不倶戴天の敵かもしれない。彼が師と仰いだ田中角栄も、「先生が1番好きだったんです」と言いながら遺骸にすがって泣いたほど敬愛した金丸信も、検察によって逮捕され、法廷闘争を余儀なくされた。そして自分も、いよいよという時に検察に足を引っ張られた、ここで引くわけには絶対にいかないというところなのだろう。

しかし、それはあくまで小沢の論理である。この期に及んで、小沢の秘書を逮捕すれば、それがどういうリアクションが起こり、政局がどう流れていくか、検察がわからなかったはずはない。にも関わらず、突っ込んだのは、これははっきり小沢への宣戦布告である。言葉が適切でなかったら、これは

「小沢は絶対に首相にしない。」

という検察の明確な意思表示である。今回、明らかに検察は最終的に小沢本人をターゲットにしていた。しかし、どんな見込み違いかは知らないが、それが果たせぬまま、秘書の起訴が精一杯の情勢となり、バランスをとる形で自民党にもある程度、手を突っ込まないと、小沢の検察批判に一定の説得力をもたせてしまいかねないところに追い詰められてしまった。

あっせん利得罪にも、贈収賄にもなりそうもない状況に、頭にきた検察はお得意のリーク戦法に出た。小沢事務所と西松建設側の不透明な金の流れをマスコミを通じて、国民の目にさらし、小沢という政治家がいかにうさんくさい存在かをアピールしようとした。こんな政治家が、首相になっていいんですか?検察はそう国民に投げかけたのだ。

小沢としてはたまったものではないだろう。あくまで大久保秘書が逮捕された容疑は「政治資金の虚偽記載容疑」なのだから。しかし、連日の報道で小沢は完全に「黒い政治家」なった。このダメージは決定的である。ミスをしたかもしれないが、それは訂正すればすむことで、我々は、いや少なくとも私は、やましいことなど全くないと、小沢は当初から主張し続けている。

小沢という政治家の限界がここにある、小沢はわかっていないのだ。小沢が「政治改革」を唱えて、自民党を離党して、もう16年の月日が流れようとしている。事ある毎に、政権交代を唱え、政治を変えると主張し続けてきた男がやっていることは旧態依然たる角栄流の金権・土建政治そのものであることが、白日の下にさらされ、彼の言葉には、もはやなんの説得力もなくなってしまったのである。彼は優れた政治家なのかもしれないが、時代が求めている政治家ではなかったのだ。

いやたぶん、小沢もわかっているはずだ、いずれ辞めざるを得ないことを。今日の千葉知事選は森健の知名度に敗れたことにして、なんとかやりすごそうとしているようだが、ならなぜ、4年前に森健は敗れたのか?もし今回のスキャンダルがなければ、民主党系の候補は勝てたはずだ。現実から目をそむけてはいけない。

この騒動が起こってからの、政治の停滞はなんだ?民主党は全く身動きがとれなくなり、国会は無風、無気力に終始した。なにもせず、なにも変わらないのに、麻生内閣の支持率が上がり、次の首相にふさわしいのは誰かという問いでも麻生が小沢を再逆転した。安倍内閣以降、繰り返されて来た数々の自民党の破廉恥な言動は、もはや記憶の片隅に追いやられ、気息奄々だったはずの自民党は息を吹き返そうとしている。

逆にもういくつ寝ると新政権と、指折り数えて待っていた民主党は一転守勢に追い込まれ、ひたすら言い訳をし、頭を下げ、しかし国民の理解は得られず、日に日に追い込まれている。小沢にモノが言えず、結局は小沢にすがり、小沢を庇う姿勢しか見せない民主党に、国民は愛想をつかし始めている。

千葉知事選に敗れ、また週末にたっぷりと地元で国民の厳しい声を聞かされてきた議員達が中央に戻ってくる明日から、民主党内はガタつくことになろう。が、辞めろ、辞めないの感情的応酬になると、これはもう収拾がつかないことになりかねない。

結局は小沢辞任、後継岡田克也で総選挙という結末は民主党も自民党もそして国民にもほとんど見えている。結論がわかっている以上、小沢が頑張って、時を無為に過ごすことになんのメリットがあるのか?小沢は選挙に有利なるように、辞任のタイミングを計っているなどと寝言を言ってる輩もいるが、衆院議員の任期切れが刻々と近づいてき、今こそ解散のチャンスと自民党がはしゃぎ出している中で、タイミングもへったくれもあるものか。一刻も早く、岡田体制を整えなければ、相手に利するだけではないか。

小沢が粘れば粘るほど、国民は呆れ、その辞任は「遅きに失した」などと言われ、なんのインパクトもないどころか、国民に嫌悪感を抱かせるだけである。小沢は進退は国民世論の動向を見て判断すると言っている。その姿勢自体が、いかがなものかとは思うが、国民世論は彼の続投に既に明確にノーと言っている。その事実から目をそむけることは、彼が悲願としているはずの「政権交代」を確実に遠ざけるものである。それを知りながら、尚も言行不一致を続けるのはなぜなのだろう。まさか、代表を降りた途端に、検察にやられるなどと、怯えているわけではあるまい。あるいは今度、辞任すれば、小沢もついに過去の人となる。もう表舞台に返り咲くことはないだろう、その恐れが、彼を躊躇させているのか。

小沢が辞めても、それで、すべてハッピーになるわけではないだろう。しかし、小沢がこのまま居座れば、民主党にとっては、そしてそれはたぶん国民にとっても確実に禍根を残す、それは間違いない。だと言うのに小沢の背中を押してやれる政治家は、民主党には本当に1人もいないのであろうか?

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2009年3月29日 (日)

さらば、永遠の「中学の放課後」

こういうのを「虫の知らせ」というのだろうか。なんとなく土曜深夜0時に、本当に久しぶりにラジオのスイッチを入れた、するとなんと、あの長寿番組が、今日で27年半の歴史にピリオドを打つという。

「コサキンDEワオ!」、小堺一機、関根勤の名ユニット「コサキン」が深夜に繰り広げてきた摩訶不思議な、しかし1度はまったらなかなか抜け出すことが出来ないと言われた名物深夜番組が、先ほど、最後の放送を終えた。本当に筆者は放送を聴くまで、全くその事実を知らなかった。放送を聴きながら、ネットでチラチラ検索したところによると、発表されたのは先月、かつては王者ニッポン放送を相手に、聴取率トップを連発していたTBSの看板番組が、このところ、その聴取率は全盛期の半分になっていたのだという。

筆者のコサキンとの出会いは1983年(だったと思う)10月からスタートした「欽グルス電リク60分」、月~金の帯番組としてスタートしたこの番組は、当時人気絶頂だった欽ちゃんファミリーが日替わりで担当するということで話題になったのだが、トリの金曜に登場して来たコサキンコンビの放送は筆者にとって衝撃的だった。

それまでの4日間は欽ちゃんファミリーらしいほのぼのとした、またそんな中にも生真面目さを感じさせる内容だったのに、金曜の2人の放送は全く異質。意味のないことを叫び、似てないものまねを臆面もなく連発、かかる曲も他曜日が当然のように時のヒット曲をかけるのに対し、全く聞いたことのない曲をかけ続けている。なんなんだ、この番組は・・・大袈裟ではなくカルチャーショックだった。

のちのちに至るまでラビーは

「とっつきにくい番組ですが、とにかく我慢して1ヶ月は聴いてみて下さい。」

とよく繰り返していたが、1回でこの番組の不思議で妖しい魅力にとりつかれてしまった筆者は、やはり相当な変わり者ということになるのだろう。

欽グルスは欽ちゃんパワーの低下により、1年半ほどで終了するが、コサキンは当時所ジョージがやっていた番組の1コーナーとして生き残り、そして86年4月から満を持して「コサキン無理やり100%」として独立、なんと水曜深夜1時~3時の生放送へと昇格する。筆者が聞き始める前は、あるパーソナリティの代役、穴埋めとしてスタートしたそうだが、2人のタレントとしてのパワーが上がっていくのと、まさに歩を合わせるように、番組も大きくなっていくことになる。

番組内容は当初の「意味ねぇ」メインからいつの間にか、有名人を茶化すのがメインに変わっていたが、それがなんとも言えずに的を得て、またなぜか憎めなかった。我々はリスナーにおんぶに抱っこ、なにもしていないと放送中に、よく悪びれずに話していたが、ムッくん、ラビーそれに「番組の良心」とも言われた構成作家の鶴間正行の3人のピュアな人柄が自然と、不快な毒を番組から消して行ったのだと思う。

とにかく、時々話題になる事柄や人物は変わっても、番組のコンセプトは全く変わらなかった。何年放送から離れても、聴くと全く違和感なくまた、入り込んでいける不思議な番組であった。例えば、番組のラストを飾る「お葉書列島」のコーナーは元々欽グルスの帯コーナーであったが、コサキンの中でとうとう今日の最終回まで、生き残ることになった。

コサキンプラス鶴間の3人でスタートした番組は途中から有川周一、舘川範雄、楠野一郎のリスナーからの転身作家が加わり、一時的にオーディションで選んだ女の子達が華を添えた時期もあったが、基本的に「いつまでも大人になりきれない中学生の放課後の与太話」のノリのままであった。

その一方でもルー大柴、ラッキィ池田、きゃい~んなどの仲間や後輩達を世に出し、今や「日本のアニキ」として大人気のアニソンの帝王、水木一郎の今日の姿を作り出すきっかけになったのも、この番組にゲストで出たのがきっかけ。もう1人の雄、ささきいさおとの競演を最初に実現したのも、たぶんこの番組だろう。大女優吉永小百合が若かりし頃出した「奈良の春日野」という歌の歌詞が笑えるといいともあたりで、取り上げて世間が騒ぎ出したことがあったが、そんなものは半年以上も前にコサキンでは、大笑いの種になっていた。

深夜放送には似つかわない大物ゲストをサラリと呼ぶ番組でもあった。筆者が実際に聞いただけでも、舟木一夫、沢口靖子、宇津井健、松本幸四郎、千葉真一、植木等・・・舘ひろしも来たような気がする。欽ちゃんは筆者の知る限り2度、二郎さんも1度出た。そういう人たちの意外な面を引き出し、それがまた番組を盛り上げるネタになって行くのである。

だが、こんな人気番組でありながら、放送時間がコロコロと変わり続けたのは、この番組の1つの特徴だったろう。夕方6時なんて、およそ番組に似合わないとんでもない時間帯に追いやられたこともあったし、前述のように毎日帯の15分番組なんてこともあった。それでもめげず、リスナーは番組を追いかけ続けた。コサキンと鶴間さん、それにリスナーの情熱そのものの賜物が、この長寿番組を生んだのだと思う。

筆者は86年の8月から2002年の最終週まで、番組を録り続けた。年に数回は聞きもれ、録り漏れがあり、金がなく、とんでもない安物カセットテープ(!)に録ったものもあり、今では聞けないものもあるが、そのライブラリー(?)は今も、地震でも来たら危ないと母に文句を言われながらも、実家の筆者に部屋の棚にある。筆者にとってそのテープはドライブの、旅行の大切な友であった。2002年を最後に録るのを止めたのは、翌年早々に結婚を控え、これを機にコサキンを「卒業」しようと決めたからだった。

以来、それでも土曜深夜にダイヤルを合わせることはあった。聞けばやっぱり面白く、そしていつものコサキンがそこにあった。それでも、ここ2年近くはご無沙汰だっただろうか。

そして今日、コサキンは27年半の歴史を閉じた。筆者が聞き始めた頃、ムッくんはまだ20代で独身だった。それが今やコサキン2人とも50を越え、今や大ベテランである。変わらないことが、人気の秘訣だったコサキン、しかし、それもいつしか時代の波に取り残され、そうなった時、もう今更修正もテコ入れもできなかったのであろう。ラストとなった放送も、ゆかりのゲストのコメント等はあったものの、これが本当に27年半続いた番組のラストなのかと拍子抜けするくらい、全く変わらないいつものコサキンであった。凄い人達、凄い番組だったと改めて思う。そして、こんなある意味、無茶苦茶な番組を長年続けさせた人達も凄いと思う。時代と人に恵まれることの大切さをこの番組は改めて教えてくれた。

番組スタート時のことは知らず、また最後まで聴き通すことも出来なかった筆者だが、おこがましいのは承知で言わせてもらえば、筆者はまぎれもなく、ずっと「コサキンリスナー」だった。手紙一通書いたこともなく、その能力もなかったが、多くの才能達の葉書に笑い、コサキンの言葉にある時はうなずき、またある時は

「バカでぇ。」

とやはり笑いながら突っ込んだ自分は確かに存在していた。申し訳ないが、筆者は他の小堺さんや関根さんの番組をほとんど見たことがない。筆者はあくまで「コサキン」が大好きだったのだ。そのコサキンが終わった、その最後に立ち会えた(聞き合えた)偶然に感謝している。ムッくん、ラビーそして鶴間さん、更に有川さん、舘川さんを始めとするスタッフの皆さん、長い間お疲れ様でした、そして本当にありがとうこざいました。

ドバイワールドカップ、武豊騎乗のウオッカは惨敗・・・だそうな。昨日の東西重賞、勝ったのはいずれも前走、豊騎乗の馬、う~ん・・・。

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2009年3月26日 (木)

歓喜の余韻、そして決別

一夜明けた今日のテレビも、侍JAPAN一色だったと言っていい。

様々な映像、コメントが流され、筆者もそれを見まくったが、1番印象に残ったものを上げるとしたら、イチローの決勝打が出た直後に大写しになった韓国監督のなんとも言えない複雑というか、無念というか、後悔というか、とにかく表現し難い表情だった。

彼の口はなにやら動いていた、もちろんそれは韓国語でつぶやかれていたはずなのだが、筆者には

「しまった、やっぱりやられたか。」

と言っているように見えた(笑)。

試合後のコメントで彼はイチローとの勝負を避けるよう指示したことを明らかにし、しかしその指示が徹底しなかったことを認め、そしてそれが敗因だったと語った。

この時、韓国は主戦捕手が既に退き、若い第2捕手がマスクをかぶっていた。そしてその彼に監督の指示はサインで伝えられていた・・・らしい。が、問題はその指示内容

「くさいところを突いて、カウントが悪くなったら歩かせろ。」

つまり、明確な敬遠指示ではなかったことだ。こういうあやふやな指示が生んだ悲劇は、野球史上、本当に枚挙にいとまがないだろう。更に、この指示そのものが、若い捕手にどうやら理解されなかったらしく、韓国バッテリーは真っ向勝負、岩村の不可解な盗塁で一塁が空いたにも関わらずだ、そして打たれた。

「理解できない。」

とまで監督は述べていた。伝え聞くところによると、韓国でもこのWBCでの監督人事は迷走を極め、脳梗塞をわずらっているにも関わらず、見るに見かねて現監督が引き受けたという経緯があったのだそうだ。病を押して、激闘を続けてきた彼に、自らマウンドに向かい、いやせめてコーチを走らせ、指示を徹底するという配慮というか気力がなかった・・・というのは言い過ぎかもしれないが、一瞬ポッカリ欠落してしまったのだろう。魔が差したというのは、まさにこういうこと。この場面を含めて、前にも書いたが、「野球というのはミスした方が負け」ということを改めて何度も思い知らされた大会だった。

それにしても、最初に見た時が、ワンセグの小さな画面だったので、完全には伝わって来なかったのだが、改めて見ると、あの内川のファインプレーはほとんど奇跡的としか言い様がない。イチローは最後に自分に神が降りてきたと言っていたが、あのプレーこそ神がかっていた。急増外野手だった内川、こういうのが裏目に出ることは多々あるのだが、あの時は内野手が本職だった彼でなかったら、あのプレーは絶対に生まれていなかっただろう。そして村田が健在だったら、あの試合、内川がレフトを守っていることもなかったかもしれない。村田の離脱を誰よりも惜しみ、悲しんだ内川。しかし、その離脱が、彼の一段の飛躍を生んだのは、皮肉な現実である。同点に追いつかれ、裏攻撃の韓国絶対有利になりかけた状況で、いきなり突破口を開いてくれたのも彼。プレーだけでなく、数々のコメントでも我々を楽しませてくれた内川。今夜、各局をハシゴして出まくっていたのは、この内川と青木の2人だった。ある意味、この大会は内川の為の大会だったと言ってもいいのかもしれない。

あのまま、サヨナラ負けしたら、日本に帰ってこられないようなことになりかねない状況で、ダルビッシュはよく抑えたね。自らまいた種と言われればそれまでだが、しかしあそこで、次の打者を何事もなかったかのように三振に切ってとったあたりは、やはり只者ではない・・・って当たり前か(笑)。更に帰国前の共同記者会見で、田中のマー君が

「次は背番号18を背負えるよう頑張りたい。」

と堂々と松坂に挑戦状を叩き付けた(笑)。前回の大会後は3年後のこの大会に呼ばれるような選手であり続けたいと明言したイチローが、今回は次回大会へ参加を問われて

「4年後なんて生きているっていう保証もないじゃないですか。」

とはぐらかした。紛れもなく、この2大会のJAPANの顔であったイチロー、そして現代の侍としてJAPANの重しであり続けたガッツ小笠原、この2人も4年後には39歳、生きているかは冗談にしても、現役選手であるという保証はない年齢でなる。やはり同期の松中は、既に今回の戦いの輪にも加わることが出来なかった。日本プロ野球にも、確実に世代交代の波は押し寄せている。

そして、原辰徳である。王貞治は前回、シャンパンファイトの前に

「諸君は素晴らしい。」

となんとも彼らしい古風な言葉で選手を称えた。そして今回、原は

「お前さん達は、」

と来た。時代劇か落語に出てくるおかみさんかい、と突っ込みたくなったが

「強い侍になった、おめでとう!」

と続けた言葉には感銘を覚えた。

そして、帰国後の記者会見での第一声

「我々は世界一になって帰って来ました。」

という台詞を放った原辰徳はたまらなくカッコよく、そして凛々しかった。一足先に帰国せざるを得なかった村田に金メダルをかけ、そしてがっちり握手をかわしたシーンにも感動した。だが、その一方で原はこうも言った。

「今日、この記者会見を最後に私は侍JAPANを卒業させていただきます。」

歓喜の時から一夜明け、帰国の途に付いた侍JAPANの中にイチロー、松坂、岩村、福留のメジャー勢の姿は当然なかった。司令塔城島健司に至っては、シャンパンファイトの後、早々に自軍のキャンプ地に旅立ち、帰国前の共同記者会見にすらもう、姿を見せなかった。そして成田に降り立ち、記者会見が終われば、この1ヶ月余り、共に熱く戦い抜いた男達は、山田久志、高代延博、伊東勤、与田剛の4コーチを除いて、みな、自らのチームに帰って行く。来週末には、日本のペナントレースはセもパも開幕するのである。まさに「今日の友は明日の敵」、前大会の時にも思ったが、プロの世界というものはなんと厳しく、そしてすさまじく、しかし清々しいものなのか。

王の言葉を借りれば

「野球って本当に素晴らしい。」

それを実感させてもらった1ヶ月余りだった。この思いを消さないようなペナントレースでの熱闘を期待したい。

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2009年3月25日 (水)

VIVA! SAMURAI!!

日本は押しに押していた、普通なら楽勝していてもおかしくないゲーム展開。しかし、どうしても決定的なダメージが相手に与えられない、そしてついに9回に追いつかれてしまう。だが、結局はこういうことなのか、そう思うしかない結末が、その直後に待っていた。それまで不振を極めていた男が勝利を引き寄せる決勝タイムリーを放つ。

「僕はやっぱり何かを持ってますね。」

破顔一笑、そうだ、やはりイチローは「イチロー」だったのだ。

もう1人の男は、やや、自嘲気味にこんなコメントを出したと言う。

「もう少しね、うまい監督なら、もうちょっと点がとれたでしょうけどね。」

原辰徳監督は選手に救われた。この決勝戦、原監督の打つ手はことごとく裏目に出かけた。苦手左腕攻略の為の「4番城島」は全く機能せず、村田負傷の穴埋めに急遽呼び寄せた栗原のスタメン抜擢もチャンスにゲッツーで実らず、本来の守護神藤川を使わずに、代わってマウンドに上げたダルビッシュが同点にされた。あのまま、負けていれば原への風当たりはいかばかりのものになっただろう。だが誤解してもらっては困る。あくまで、この決勝戦に限った一現象の話である。この連覇という偉業を掴み取ったのは、原辰徳監督のゆるぎなき信念と、ただひたすらに前を見続ける一途なまでのひたむきさの賜物なのだ。

決勝ラウンド進出をかけた韓国との今大会3度目の戦いは完敗だった。特にイチローの不振は目を覆うばかりだった。ただひたすらに凡ゴロを転がし続ける打撃からは、輝きも誇りも失せてしまっていた。次のキューパとの2度目の対戦は侍ジャパンが始めて直面する、あとのない戦いになる。負ければ、その時点でリーグ敗退、連覇は夢と消える、短期決戦、一発勝負の怖さである。

なにか手を打つ必要があった。点をとらなければ、野球というゲームに勝利はない。そして、今その障害になっているのがイチローであることは、誰の目にも明らかなことであった。

筆者はイチローを外すべきだと思った。既に原の当初の構想であった3番から1番に彼の打順は変更されていた。アメリカに行けば、イチローは変わる、その確信に満ちた期待とは裏腹に、イチローの調子は一向に上昇の気配を見せないでいる。イチローほどの選手に「打順降格」はない、彼ほどの選手に求められるものは最前線での戦いか、それに臨めない場合はベンチである。とにかく、カンフルを打って、キューバ戦を乗り越える。1試合外すことによってリフレッシュしたイチローをまた、次の試合から使えばいい。

しかし、原はやらないと思っていた。どんなに不振でもイチローはイチロー、ジャパンの看板である。その彼が、例えどんな状態であろうと、外すとなるとそのリアクションはどんなに大きいか、使った方が、よほど「リスク」が少ないのである、指揮をとる立場としては。

そして実際、原はイチローを使い続けた。安直な選択をした、と言っては酷かもしれない。結果として、もしあの時イチローを外していたら、決勝戦での彼の決勝打はなかっただろう、外れた時点でイチローは終わっていただろう、チームも終わっていたかもしれない。チームリーダーとはどんな存在なのか、その選手をどう扱えばいいのか、原辰徳はやはりよく知っていたのだ。

その一方で、他の選手のセレクトには容赦なかった。前回大会の4番打者松中が、コンディション不良と見ると、あっさり最終選考から外した。長打力不足を指摘され(事実、アメリカに渡った後の6試合でホームランはとうとう内川が放った1本しかなかった)、本当なら松中の長打力はのどから手が出るほど欲しかったはずなのだ。攻撃的2番と侍ジャパンの売り物の1つだった中島が発熱すると、スパッとスタメンから外し、守護神藤川の調子が上がらないと見るや、ダルビッシュを後ろに回した。松坂、岩隈が抜群の安定感を誇る一方で、若いダルビッシュの投球内容にバラつきが目立ったところからの、思い切った配置転換だった。そう言えば、あれだけこだわっていたメジャーリーガーの起用も、最終戦では福留を外してしまった。こだわりから、なにもかもが後手に、裏目に出た星野ジャパンを反面教師にしたかのような、采配ぶりだった。

そういえば、今回のジャパンチームはついに「原ジャパン」とは呼ばれなかった。筆者はそれも勝因の一つだと本気で思っていたのだが、実はそれは原のこだわりだったということを、先ほどのテレビで初めて知った。

「私は前任者達の域に達するような存在ではない。」

というのが原のコメントではあったが、北京五輪で「○○JAPAN」と監督名を冠して呼ばれたチームが、ことごとく惨敗を喫したというのは動かしがたい事実である。これからのジャパンチームの名前としてずっと使っていけるであろう、このネーミングを編み出したのが、誰かは知らないが、その発想の原点に原がいたという事実は決して忘れてはならないだろう。

今回の原を取り巻く空気は、お世辞にも暖かいとは言えなかった。もともとたらいまわしになった挙句に回ってきたお鉢、決然と引き受けたら、「身の程知らず」的な雰囲気に包まれてしまった。自分のチームのことは棚に上げて、ひたすら原の采配ぶりや、ジャパンの戦いぶりをあげつらうことで、マスコミの寵児になってるような輩までいた。しかし、原は見事に、その信念を貫き通して、結果を残した。心から喝采を送りたい。

3年前、日本は見事に初代WBC王者に輝いた。だが、筆者にはずっとわだかまっているものがあった。韓国に負け越して、ガタガタ言われているのも、癪だったが、それ以上にひっかかっていたこと、それは「アメリカととうとう決着がつけられなかったこと」である。

ボブ・ディビットソン(こいつの名前は一生忘れねぇなぁ)による世紀の「大誤審」と言われるあの判定、なんとみんな人がいいのだろう。あれは断じて「誤審」などではない、あれは明らかにアメリカを勝たせようとしたいわば「謀審」である。審判ともあろうものが、あそこまで明白な不正を白昼堂々とやってのけた。あいつはそれも2度やった、そしてそれでもアメリカはルールに泣いて、2次リーグで敗退していった。そして、こちらは優勝、野球の神様は見ていてくれたのだろう。しかし、それで収まるものではなかった。確かに、あれで日本は勝ち越しただけで、最終的にあの試合に勝てたという保証はないし、小笠原、岩村、青木ら前回も出場していた選手達は、今回の対アメリカ戦前に、もう済んだこと、関係ないとコメントしていた。が、当方はそんなサバサバしたスポーツマンシップなど、持ち合わせてはいない。そして決勝リーグ初戦、ヨタヨタしながらもあいつらは勝ち上がってきた。3年越しの、少なくとも筆者にとってはようやく訪れた「リベンジ」の機会である。

アメリカの監督はデーブ・ジョンソン、打撃コーチはレジー・スミスとジャイアンツファンとしては懐かしい顔が並んでいるが、今日ばかりはそんなことは関係ない。とにかく勝ちたい、勝って3年前の屈辱を晴らし、堂々と決勝で韓国と5度目の決戦をしたい。

先発の松坂は、いきなり先頭打者にホームランされたものの(そう言えば、3年前のキューバとの決勝戦でも、先頭打者に一発食らっていたよな)、あとはつけ入らせない。だが、やっぱりきわどい球はことごとくボールにされる。なんで球審がアメリカ人なんだ、いい加減にしろ!しかし、先に崩れたのは向こうの先発だった。以降の経過を詳しく書くことは避けるが、まぁ完勝と言っていい内容だった。「歴史的勝利」とも人は言うが、それはともかく、こちとらの溜飲が下がったのは確かだった。

松坂のMVPは本人は謙遜していたが、誰も異存はないだろう。3度の登板はまず、全く危なげなく完璧、エースとはかくあるべきというお手本のようなピッチングだった。投球内容では、更にその上を行っていたのが岩隈。勝ち運に恵まれず、MVPは松坂にさらわれたが、投球制限のあるWBCで今日の決勝戦で8回途中まで投げたのは驚異的と言っていい。それに比べて、ダルビッシュは若さを出したが、この経験がいよいよ彼を無敵の大投手に高めて行くだろう。第2先発という難役を見事にこなして見せた杉内、田中のマー君の小気味よいピッチングは、出番は少なかったが印象に残った。山口も与えられた仕事をきっちりこなしていた、数字が示す通り侍ジャパンの投手陣は鉄壁、その力は他国から群を抜いていた。

イチローは苦悩し続けた1ヶ月だったろうが、それでも最後にああいう仕事をするところが天性のスター、ヒーローなのだろう。ガッツ、稲葉のベテラン2人も存在感があった。村田の北京とは全く変わった姿は、新しい日本の4番誕生を思わせた。途中リタイヤはただただ残念だったが、早く治して、今度はハマスタで、ドームであいまみえましょう。青木は天才、イチローの後継者は彼しかいない。内川は階段をまた1歩上がった、横浜の顔になる日も近い。中島、片岡の西武勢は慣れない打順、慣れないポジションにもめげず、結果を出した。前回のレギュラーから今回サブに回った川崎は、しかし腐ることなく、少ない出番で確実に結果を残した。3年前はアメリカ移籍初年で泣く泣く辞退したが、今回は見事な司令塔ぶりを見せた城島、下位打線で地道につなぎに徹してくれた岩村・・・みなさん本当にお疲れ様でした、そしてありがとう。

韓国との一連の戦いは文字通りの「死闘」だった。正直言って、選手個々の力はこちらの方が、かなり上ではないか思う。しかし、それでもいざこういう戦いになると互角以上の戦いになってしまうのか、それは日本ではとうの昔に時代遅れ、ダサいものとして捨て去られ、忘れ去られてしまった「精神力」「根性」「執念」といったものを、韓国はチームとしても個々の選手としても旺盛に持ち合わせているからなのではないかと、今回しみじみと考えさせられた。今回は、それを日本の選手の能力が辛うじて抑え込むことができた。しかし、次回もそうできるのか、その保証はどこにもない。ただ、この両国の激しいつばぜり合いはきっと、世界の野球関係者やファンの心に強く、焼きついたに違いない。

第2回WBCは日本としては最高の形で幕を閉じた。再び世界一となった「侍JAPAN」、しかし、その戦いを振り返った時、1つの疑問は湧く。韓国5試合、キューバ2、アメリカ、中国各1、これが侍JAPANが今回戦った相手のすべてである。これで果たして「ベースボール世界一」を本当に名乗れるのか?日韓戦は確かにいい試合ばかりだったが、それでもさすがに最後は見る方も、そして戦っている当事者達もやや食傷気味であったことは否めない。そして、他ならぬ主催国アメリカで今ひとつ盛り上がらない現実、第3回に向けて、運営上の課題はまだ多い、いやこのままでは先細りになりかねないという懸念すらある。アメリカをいろいろな面で、どうやってもう少し「本気」にするか、知恵を絞っていく必要がある。

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2009年3月17日 (火)

侍、好発進!

書きたいことはいろいろあれど、世間の動きに筆者の更新速度と能力が全く追いつかない(苦笑)。とりあえず、今日はこの話題を外すわけにはいくまい。

日本時間16日早朝5時から侍ジャパンの第2ステージ初戦があると知ったのは、実はほんの2、3日前のことだった。その日は遅番だから、試合をゆっくり見ても充分出勤時間には間に合いそうだったし、苦手の早起きも、こういう為ならなんとかなりそうだ。それでも、なんとなく観戦に迷いがあったのは、前回WBCでまともに見られた唯一の試合が、やはり同じ第2ステージ初戦の対アメリカ戦だったという「嫌な思い出」があったからだ。

この試合のことは多くの方が苦い記憶として留めているだろう。例のインチキ審判に勝ちをもぎとられた試合である。俺は見ない方がいいんじゃないか、あんたがかついでもしょうがないだろうと言われてしまいそうだが、筆者はこういうゲンをどうしても気にしてしまうのだ。

結局、無理して起きずに、目が覚めた時点から見ることにして、目覚ましもかけずに床に入った。どのくらいたったか、フッと目を覚まして、時計に目をやると、なんとまだ3時半。冗談じゃないと、懸命に眠りに就こうとしたのだが、こうなると眠れない。仕方なく、5時から張りきってお付き合いすることにした。そして、結果はと言えば、まぁすでにご承知の通り、早起きは三文の得、であった。まずは完勝、あくまで今日の試合を見る限りだが、キューバも大したことねぇなというところであった。

3年前のアメリカ戦はイチローの先頭打者ホームランなどでいきなり3点を先制したものの、後はアメリカの圧力を肌で感じながらのヒヤヒヤ観戦。ブレッシャーにヘロヘロになりながらも、なんとか先発の上原が守り抜いたリードを清水直行以下の後続陣が守りきれず、謀略審判のあざとさに激怒させられた挙句、藤川が打たれてジ・エンド。日本を応援していた立場からすれば、なんの救いもないゲームだった。

翻って今日の試合はといえば、全く危なげなく、安心して見ていられた。評判の164kを投げるとかいう相手の先発投手も、とんだ評判倒れだったし、全体的にキューバは投打共に精彩を欠いていた。

もっともこちらも明らかにコントロールに苦しんでいる相手をイチローがフルカウントからボール球に手を出して助けてしまったり、小笠原、内川の連続走塁ミス、更にはイチロー、城島の連続落球と結構間抜けなプレーをしていたのだが、相手もお付き合いというか、それ以上のミスを連発してくれて助かったという面はある。2回、相手のバッテリーエラーで点が入らなかったら、あのあとのスムーズな攻撃があったかどうか。こちらの落球はいずれもファールゾーンだったが、向こうは太陽で飛球を見失ったら二塁打になってしまった。今日はツキもこちらにあった、まぁ野球は大きなミスをした方が負けという、当たり前のことが再認識された一戦だった。

もちろん、ツキや相手のミスだけで勝ったわけではない。先発と4番の差が大きく明暗を分けたのも間違いない。当方はメジャーリーグに興味がない為、松坂という投手を久々にじっくり見たのだが、西武時代とは完全に別人のようになっていたね。投球フォームからも、投球自体からも力感というか、無駄な力がすっかり抜けて、しかしいざとなると相変わらず凄い球が行っていた。侍ジャパン首脳陣のチョンボと現所属チームの横槍で、実戦登板から遠ざかり、不安も伝えられたが、どうしてどうして、さすがとしか言い様がない。

そしてその、ただでさえ手ごわい敵の大エースを助けていたのがキューバの4番。1次リーグの対オーストラリア戦での起死回生ともいうべき代打逆転本塁打を買われての4番起用だったようだが、これは完全に裏目に出た。一昔前まで、助っ人として日本にもよく来ていた、パワーはあるが穴も大きい荒っぽいタイプのバッターで、この手の打者を料理するのは、日本バッテリーはお手のものを言ってもいい。

対する当方の4番は2回にしっかり追加点となる犠牲フライを上げ、ダメ押しタイムリーも放っていた。2年連続セの本塁打王でありながら、いまいち信頼感に欠け、当初は原構想では5番だったが、力で4番をモノにした。今回のジャパンのメンバーの中では唯一に近い長距離砲だけに、収まるところに収まった感じだ。1981年のオールスターで当時の西本幸雄監督にパの4番に抜擢され、それを機に日本を代表する打者に成長して行った落合博満の故事を思い出した。

更に言えば選手の意識というかベンチワークというか、そこにも差を感じた。敵の荒れ球投手を揺さぶり、粘り、球数を投げさせ、イラつかせて自滅に追い込んだ日本に対し、松坂相手に、策を弄することなく、真っ向から向かってきたキューバ打線。まぁそちらの方が「サムライ」らしいと言えなくもないが、工夫がないとも言える。球数制限を利用してやろうなどという気はハナからなかったようにしか見えず、おかげでこちらは松坂を6回まで引っ張れた。これは本当にありがたかった。そして2番手には先発三本柱の一角であるはずの岩隈を1イニングながら投入する手堅さ、あとは馬原-藤川の必勝リレー。まぁ、もちろんこれでキューバ組し易しとは言うつもりない。現に東京では初戦にあれだけ大勝した韓国にキッチリお返しされているのだから。しかし、必要以上にキューバを恐れることはなくなった。

次の相手は前大会で大変お世話になったメキシコがもう少し、頑張るかと思ったが、韓国があっさり勝ち上がり、早くも3度目の日韓戦である。勝てば、準決勝進出決定、是が非でもここで決めたいものである。

対韓国戦の鍵ははっきりしている。3年前の大会、そして北京五輪の予選、本戦そして今大会の2戦、日本の投手陣はほとんど打たれていない。打線が爆発すれば勝ち、そうでなければ競り負けるという傾向が明らかだ。要は打線が点をとれるかどうか、それにかかっていると言っていい。となると韓国に大勝したあの試合を除いて、ほぼ沈黙しているイチローとずっと沈黙している福留孝介という2人のメジャーリーガーの不振はどうしても気にかかる。アメリカに来ても、一向調子が上がる様子のないイチロー。福留は前回大会も不振で後半はベンチに下げられた。と言ってチーム結成当初は絶好調だった稲葉も調子落ちで、うまくいかないものがある。ガッツ、岩村に当たりが出て来て、中島が風邪でもすかさず片岡がフォローに入れるなど他はうまく回っているだけに、とにかくこの2人。後は今日はガッツがDHだったが、司令塔城島の存在感はもはや外せず、捕手としての出番はほぼなさそうな阿部慎之助をなんとかラインナップに加えて、打線を強化したい。さて、原監督の構想はいかに。

次の試合は日本時間18日のお昼から。ラッキー、今度は休みじゃないかと喜んだが、考えてみたらお彼岸で墓参りに行かなくてはならない。よし、それならご先祖様にも力を貸していただいて、侍ジャパンの勝利をみんなで祈ろう!

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2009年3月14日 (土)

そして、大棋士は去った

正直なことを言えば、遠からずこの時が来ることはわかっていた。しかし、それがいざ、現実のものとなってしまうと、やはり寂しい。3月11日、中原誠16世名人が今月一杯での現役引退を表明した。その前日に現役最年長棋士、73歳の有吉道夫九段が来期の現役続行を自力で勝ち取ったというニュースが流れたばかりだけに、感慨もひとしおという気がする。

入院直後は軽症を伝えられ、すぐにでも復帰するような話も流れたが、結局はそのまま今月末までの休場が発表されたのが、昨年の9月末。以来、その動静が全く伝わって来ず、容態が心配されていたが、先月の5日に退院していたそうだ。それから1ヶ月余り後の引退表明、この間の時間は、中原にとっては、自分で自分を説得する為の時間だったのだろう。

往年のライバル、米長邦雄現日本将棋連盟会長と共に会見に臨んだ中原は、しっかりとした口調で記者団とのやりとりをこなした。言語障害が残らなかったのは、幸いなことではあったが、左半身の麻痺が思うように回復せず、それが結局、現役続行を断念する決定打になったようだ。会見の様子は、7時のNHKニュースでも取り上げられ、翌日の朝刊各紙でも、それなりのスペースで報じられていた。中原という棋士の存在の大きさが改めて示されたと言っていい。

戦後の将棋界は戦前から続いた木村義雄の時代が昭和20年代後半には終わりを告げ、以降は大山康晴、中原誠、羽生善治の3人がそれぞれ一時代を築いた、いわば「戦後の三傑」である(羽生時代はまだまだ継続中であるが)。升田幸三、米長邦雄、谷川浩司といった面々はむろん将棋史に残る棋士ではあるが、所詮彼らは三傑の好敵手止まりであり、彼らの時代というのはついに訪れなかった。そこには埋め難い決定的な差がある。

その三傑の足跡を改めて振り返ると、はてと思うことがある。中原という棋士は、それぞれの記録で先人大山についに及ばず、また羽生にその記録を塗り替えられつつある。彼の手に残ったレコードというのは、年間最高勝率くらいのものである。一時期は全く他を寄せ付けない程の強さを誇ったにしては・・・という感は否めない。

1つの数字がある。73勝110敗勝率.399、これは世紀が21世紀と変わった2001年から今日までの中原の対局成績である。この中には、最後に喫した5つの不戦敗が含まれているから、大甘でそれを差し引いて計算しても勝率は.410。これを中原の生涯成績1308勝782敗勝率.626と比べて見てほしい。彼の「晩年」の苦闘が目に浮かぶではないか。

昭和40年代中盤から平成初期にかけて、文字通り棋界に君臨した中原であったが、平成5年、つまり1993年に宿敵米長に屈辱の4タテをくらって、名人位から3度目の陥落を喫して以降、急速に衰えを見せる。タイトル戦の常連だった彼が、その年王将戦に挑戦者として登場したのを最後に、ついに2度とタイトル戦に姿を現すことが出来なかった。チャンスは何度かあったのだが、どうしてもあと1歩が及ばず、記憶に新しいところでは今から6年前の竜王戦、当時の羽生善治竜王への挑戦まで後1勝と迫りながら、森内俊之九段に敗れ、多くの将棋ファンが望んだ羽生ー中原のタイトル戦を幻としてしまった。結局、羽生とのタイトル戦は1度も実現せず、本人も記者会見でそれが唯一の心残りだと言っていた。

1999年には一流棋士の証ともいうべき順位戦A級からも陥落、カムバックを目指してその後2年、B1クラスで指したものの、思うような成績が残せず、ついにフリークラスを転出。名人在位15期を誇る永世名人資格保持者が、名人位を目指す戦いから自ら撤退してしまったのである。人間誰しも、年齢から来る衰えから逃れられるものではない。しかし、前王者大山との比較から言っても、中原の衰退ぶりはあまりに早すぎた。その大きな理由の1つが「あの事件」であったことは、疑いない事実であろう。

中原を語る上で、どうしても避けて通ることができない林葉直子元女流棋士との不倫騒動。林葉の暴露によって明かされた衝撃的な事実が、センセーショナルに報じられた結果、それまで完全無比の大名人と思われていた中原のイメージは一変、世間で笑い者になるだけでなく、将棋界での権威も一夜にして失墜してしまったのである。人の評価というのは恐ろしい、あの事件で今までとは一転、軽蔑の対象になってしまった中原は本来スキャンダルとは全く関係ないはずの本業将棋まで勝てなくなってしまったのだ。

年をとってからの火遊びは命取りとは昔から、つと言われることではある。品行方正、将棋一筋だった中原にとって林葉はまさにとんでもない「禁断の果実」だったのだろう。彼が、林葉との情事に溺れている間に、将棋界には羽生、佐藤康光、森内を筆頭にしたいわゆる「羽生世代」の俊秀達が台頭し、長年中原に頭を抑えられ続けて来た宿敵米長は、プライドを捨て、彼らに教えを請い、打倒中原への執念を募らせていた。中原にとっては悔やんでもあまりある「タイムロス」であった。

最近の中原は、前述の竜王戦のように、思い出したように「腐っても鯛」的存在感を示すことはあっても、もはや過去の人になり切ってしまった感が強かった。そんな彼が、一昨年の秋に、現役のまま16世名人を名乗ることになったと聞いて、筆者は危惧の念を抱いた。そして案の定、黒星を重ね続ける中原の姿に筆者は失望した。ところが、昨年の3月末、当時の森内名人に勝って、永世名人襲位後ようやく初白星を挙げると、突如覚醒したかのように暴れ始めた。

森内の後、佐藤2冠(当時)も撃破して竜王戦本戦入りをかけて羽生2冠(当時)に挑むもこれは敗れた。しかしその羽生を銀河戦で破ってお返しをするなどA級、B1級のトップどころをなで斬りにする活躍を見せた。

事実上、最後の対局となってしまったのは対木村一基八段戦。その彼を降した後の感想戦途中に不調を訴え、入院そして今日の事態を迎えることとなったのだが、最後の一局をバリバリのA級棋士相手に見事勝利で飾り、そして考えてみると羽生、佐藤康、森内という当代ビック3ともいうべき3人との最後の対戦をすべて白星で飾ったことになる。彼らとの初手合いでも中原は、すべて勝利しているが、それは当時の中原はそれこそバリバリのトップだったのだから、当たり前と言えば当たり前。だが、還暦を過ぎ、本人を含め、誰1人思っていなかったとは言え、引退を目前にしていたこの時期にこの快挙を演じたことには素直に敬服するしかない。そう言えば、順位戦A級同様、棋士としての一流の証ともされる竜王戦1組の座は、2度ほど陥落したものの、すぐに舞い戻り、とうとう最後まで守り通したのも、見事だった。

ろうそくは燃え尽きる前がもっとも明るいとも言うが、ひょっとしたら、もう一花咲かせられたのではないか、人にそんな幻想を抱かせて、中原は去った。大山の見事な晩節とは比べ物にはならないかもしれないが、やはりこの人もまた、とてつもない大棋士だったのだと、改めて実感させられる。

「勝負はもう充分、堪能した。これからは評論家として、解説や執筆の活動をしながら、のんびり過ごしたい。」

会見で中原はこう述べたと言う。我が将棋人生に悔いなし、というところなのだろう。繰り返しになるが、言語障害が残らなかったのは本当に不幸中の幸い。身体をいたわりながら、これからも将棋の楽しさ、面白さをファンに伝えていって欲しい。長い間、本当にお疲れ様でした。

最後に、4月1日付で新設され、中原が就くとされる「名誉棋士会長」とは一体なんなのだろう。中原には既に「16世名人」を始めとした「永世十段」「永世棋聖」「永世王位」「名誉王座」という、その実力で勝ち取った称号がキラ星のごとくある。そこに屋上屋を重ねるような陳腐な肩書きが必要なのだろうか?中原本人がそれを望んだのか、それとも策士米長会長一流のなにか思惑があるのか、どちらにしてもなんかすっきりしないものを感じるのは筆者だけ・・・なのかな、やはり。

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2009年3月12日 (木)

関東の意地、横山の悲願

四位洋文、四位洋文、石橋守、武豊、安藤勝己、M・デム-ロ、武豊、角田晃一、河内洋、武豊、武豊。この騎手名の羅列が何を意味するかは、競馬が好きな方ならおわかりだろう。日本ダ-ビ-を勝った騎手、いわゆる「ダ-ビ-ジョッキ-」を新しい順から遡ったものだ。昨年は四位騎手が史上2人目の連覇を達成、今年は前人未到のダ-ビ-3連覇に挑む。また史上初の連覇達成者の武騎手の名が4度出てくるのも、やはり目を引く。

そしてこれらのジョッキ-に共通するのは、外国人騎手のデム-ロを含めてすべて関西を主戦場にしている「関西所属騎手」だということだ。この次にようやくサニ-ブライアンでダ-ビ-を逃げ切った関東所属の大西直宏の名前が出て来る。1997年のことだから、もう12年前、干支が一回りしてしまった。この後は、藤田伸二、小島貞博、南井克巳とまた関西所属騎手の羅列が始まり、1993年のダ-ビ-ジョッキ-に柴田政人の名が刻まれている。

「ダ-ビ-を勝てたら、騎手を辞めてもいい。」

2着に入ったことすらなく、あまりにも遠いダ-ビ-ジョッキ-の座に、こんな悲痛な叫びすら上げたと伝えられる柴田。それだけに19回目の挑戦でついに彼がその座を射止めた時、競馬ファンは万来の拍手を送った。そして結果として、これが名騎手柴田政人にとって本当に最後のダ-ビ-になってしまったのである。この顛末はなんとも切ない。

この柴田の同期生で、56歳まで現役として活躍した岡部幸雄。彼が残した3年連続を含む計6回のダ-ビ-2着というのは、恐らく不倒の珍記録として競馬史に残るであろう。そして、長く競馬界に君臨した岡部ですら、ダ-ビ-はあの皇帝と呼ばれたシンボリルドルフでの1勝しか上げられなかったという事実は、ダ-ビ-ジョッキ-への座が、特に関東所属騎手にとってどんなに、遠く厳しいかを物語っている。そして2005年3月、岡部が惜しまれつつタ-フを去り、翌年末に大西がステッキを置くと、とうとう関東からダ-ビ-ジョッキ-は姿を消すことになってしまったのだ。

少し前に行われた今年初のGⅠレ-ス「フェブラリ-ステ-クス」、東京競馬場で行われたこのレ-スに結果としては回避されたものの、あわや関東所属馬が1頭も出られなくなるかもしれないという事態が発生した。西高東低といわれて久しい日本中央競馬だが、いよいよそれも極まった感がある。ダ-ビ-も大西の乗っていた馬は関東所属馬だったが、柴田の騎乗馬ウイニングチケットは関西馬。関東馬のダ-ビ-制覇は90年のアイネスフウジンまで遡らなければならず、ここらへんの時代になると筆者にとってはもう「歴史上の出来事」でしかない。

騎手の世界は長らく武豊の1人天下が続いているが、調教師の世界では関東所属の藤澤和雄調教師がトップに君臨して来た。ところが昨年、藤澤師は重賞未勝利に終わり、長らく維持して来たリ-ディングの座も、関西の新鋭池江泰寿師に奪われてしまった。関東最後の砦すら、ついに陥落してしまったのである。

ところが、である。今年の雲行きはちと違う。騎手リ-ディングは年々勝ち星を減らし、いよいよ王座転落の危機を囁かれる武騎手が、ケガもあって年明けから出遅れ。2月に入って重賞を3週連続で勝ったり、1日に特別レ-スを3連勝したりと、ようやく例年のような独走態勢に入ったかと思われたが、クイ-ンCで大本命ミクロコスモスをぶっ飛ばしたあたりから様子がおかしくなって来た。なかなか勝ち星が上がらず、関西リ-ディングでも先行勢を捉えられない。勝率2割を切っている現状は彼としては不合格、騎乗数はともかく、騎乗馬の質が明らかに低下しており、今後の見通しも厳しいものがある。

その武を引き摺り下ろすのは関東の内田博幸か関西の岩田康誠という地方出身勢というのが衆目の一致するところであったが、現実に今、リ-ディングトップを快走しているのは横山典弘、とにかく、今の横山は手がつけられない。独走横山の後は混戦だが、2位は内田とこれも関東勢。関西勢に待ったをかける勢いだ。

岡部のダ-ビ-2着6回を不倒の珍記録と書いたが、この記録にひょっとしたら挑戦?できそうなのが横山。この人、GⅠでやたら2着が多いので有名だが、ご多分にもれずダ-ビ-でも現役最多の2着3回を記録している。そしてこの横山の頭を長年抑え続けているのが、誰あろう武豊その人なのである。

誰かが「横典の天敵」と書いていたが、横山にとっては実感かもしれない。武は目の上のたんこぶ以外の何者でもなかった。横山の2着の多さは彼のレ-ス戦略の凄さの証明と言われているが、その彼の腕を持ってしても、武の牙城は崩せなかった。しかし、ついに今年、時は来た・・・かもしれない。既に重賞5勝、勝ち星でも豊に10勝以上の差をつけている横山が手に入れた「リ-サルウエポン」、それが先日の弥生賞圧勝で堂々、今年の牡馬クラシックの主役に踊り出たロジユニバ-スである。

皮肉にもロジのデビュ-戦の手綱をとったのは武だった。そして札幌2歳Sを横山の手綱で勝つ。この報を聞いた豊は

「これであの馬はもう、自分のところには戻らないな。」

と惜しそうにつぶやいたと言う。ロジの将来性に、武ほどの騎手が気づかぬはずがない。そしてその武の懸念が現実となったのが、暮れのラジオ日経賞だった。クラシックの登龍門とも言われるこのレ-スに武は大本命リ-チザクラウンで臨んだのだが、結果はロジに4馬身差の完敗を喫した。それまで、リ-チを中心に回っていくと思われていた09牡馬クラシック戦線の様相は一変した。

悠々と冬場休養に充てたロジに対して、名誉挽回とばかりに厳冬のきさらぎ賞に駒を進めざるを得なくなったリ-チはここで圧勝するのだが、ロ-テ-ションの順調さは比較にならない。そして、今のところ逃げでしか結果の出ていないリ-チを挑発するかのように、横山はロジで弥生賞を逃げ切って見せた。自他とも認める「弥生賞男」ながら、今年は騎乗馬がなく、阪神でこの様子を見ていた武はなにを思ったのだろうか。

皐月賞からダ-ビ-はこの2頭の一騎打ちとの呼び声は高まっている。すくなくとも皐月賞はその様相が濃い。だが、ダ-ビ-はどうだろう?武には共同通信杯-NHKマイルの異例のロ-テ-ションでダ-ビ-を狙うブレイクランアウトというもう1頭のお手馬もいるし、フォゲッタブルという隠し玉もある(笑)。また、牝馬戦線で敵無しと見られるブエナビスタもダ-ビ-参戦の噂があるし、まだまだ大物感漂う馬が何頭かが、虎視眈々とダ-ビ-戦線に名乗りを上げようと狙っている。

96年、ダンスインザダ-クという大本命馬を擁しながらもダ-ビ-を勝てなかった橋口調教師は

「この馬でダ-ビ-を獲れなかったら、もうどうしていいかわからない。」

とまで惚れ込むリ-チを皐月賞へ直接ぶつける。はっきり言って

「皐月賞はダ-ビ-の叩き台。」

と言ってるに等しい。一方のロジは正攻法のロ-テ-ションで、ダ-ビ-どころか3冠を狙う立場に立たされた。管理する萩原師もオ-ナーもテンションが上がっている。そして誰より

「僕の馬が1番強い。」

と言い続け、1番人気で臨みながら敗れ去った90年のメジロライアンとのダ-ビ-から19年の月日が経った。直接対決でも、前哨戦でもあれだけ完勝した以上、横山は相当の自信を持っているだろう。ついに武に一泡ふかせられる、横山は意気込んでいるはずだ。今や勢いは明らかに横山の方にある。

浮き足立つ両陣営、その中でただ1人冷静な男がいる、他でもない武豊。日本で1番ダ-ビ-の勝ち方を知っている男、そしてわずか1戦とは言え、彼がロジユニバ-スに跨っているという事実はこの戦いにおいて決して軽視できないのではないか。更に横山は「秘策」ともいうべき逃げを事前に披露してしまった。これが果たして武の緻密な騎乗戦略にどうインプットされたか。なにやら高度なレベルの一騎打ちが見られそうで今からワクワクして来るが、内田、安藤、岩田、四位といった連中もただ指を加えて見ているとは思えない。豊がリ-チでダ-ビ-に臨むとしたらブレイクには必ずこの4人の誰かが乗ってくるはずだ。これはますます目が離せない展開になりそうである。

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2009年3月10日 (火)

悲しみがとまらない

祖母が亡くなった。齢94、人は天寿をまっとうしたと言う、不足のない年齢だとも言う。自分だって、人にならそう言って慰めるかもしれない。でも身内としては、そんな簡単に割り切れるものではない。

今年に入って祖母には5回会えた。1月7日、正月の挨拶に行った時、その死を予感させるものはなにもなかった。いつもの通り優しく、エレガントでそしてかくしゃくとした祖母がそこにいた。電話をしてから行ったのだが、少し遅れてしまい、急いで行くとなんと寒空に門の外で待っている。

「遅いから心配になって。」

そう言ってホッとした表情を見せた祖母に筆者は本当に申し訳ないことをしたと思った。話をしたのは1時間半ほどだったが、頭はシャープ、そしてやることにそつがない。自分で我々にお茶を入れてくれ、卵アレルギーで食べられる菓子が限られているひ孫である筆者の子供達に配慮して、出してくれるのはせんべいとみかん。そして当たり前のようにお年玉をくれる。下の子がいくつになるかと尋ねられたので

「もうすぐ誕生日で2歳になります。」

とうっかり正直に答えると、さりげなく席を立つ。その意味がわかって、しまったと思う間もなく、戻ってくると

「はい、お誕生日おめでとう。」

と今度は誕生祝いを差し出す。我が子が2人とも1月生まれだということをちゃんと思い出して、また2枚の祝い袋だ。本来なら、こちらがおこずかいを差し上げなくてはならないのに、とても受け取れないと断っても、ニコニコしながら、しかし決して引っ込めることはしない。孫がひ孫を連れて、訪ねて来るのが、本当に楽しみだったらしい。

あっという間に時間が過ぎ、お暇しなければならない時間となり、妻が湯のみを洗おうとすると、それを押しとどめ、暗くなったから早く帰った方がいいと言う。またしてもお言葉に甘えて玄関を出ると、一緒に出て来る。寒い時でも暑い時でも、祖母は我々を見えなくなるまで必ず見送ってくれる。寒いからもう家の中に入って下さいと言っても、絶対に最後まで見送ってくれた。みんなで手を振り、急いで車をスタートさせる、祖母に少しでも早く暖かい所に戻ってもらうにはそうするしかないのである。小さくなる祖母の姿をバックミラーで眺めながら、しかしこれが「元気な祖母」の見納めになるなんて、筆者は夢にも思わなかった。

それから10日後、温泉土産を渡そうと何の気なしに祖母の家に立ち寄った時、筆者は愕然とさせられる。そこには今まで見たことのない祖母がいた。聞けば腰を痛めて、動けないのだと言う。うずくまるように丸まって椅子に腰掛ける祖母は、急に小さくなり、そして急に歳をとってしまったように見えた。別人のようになってしまった祖母に、筆者は94という祖母の実年齢を意識せざるを得なかった。

2月10日、胸の痛みを訴えた祖母は救急車で運ばれ、入院する。心筋梗塞、出産以外では初めての入院だった。だが、心配をかけたくないという祖母の意思で、遠くに住む子供、孫にはすぐには知らされず、筆者が知ったのはなんと3日後、やきもきしても仕事が立て込んでいて身動きがとれない。そうこうしているうちに15日に容態が悪化、会わせたい人がいればすぐに呼ぶようにという医師の言葉に、親族が大慌てで集結する。筆者の母親も飛んでいったそうだが、この日は日曜、仕事をしている筆者には知らせも来ない。そして翌日早朝、母親から連絡が入って、筆者は初めて自分だけが状況から取り残されていることを知る。だが休めない、「孫」でしかない自分がこの時ほど恨めしかったことはない。

だが、事態は急変する。朝の電話では、しばらく帰れないと言っていた母が、戻ってくると言う。どうやら薬が効いて、回復して来たので、一旦引き上げると言うのである。ホッと一息ついた筆者が、ようやく念願かなって祖母の所に駆けつけられたのは18日。それなりの覚悟を決めて病室を訪ねた筆者を祖母は、ちゃんとわかってくれた。会話もしっかり交わせたし、もちろんあのかくしゃくたる祖母とはほど遠いにしても、危機は脱したのではないか。そんな淡い期待をあっさり打ち砕いてくれたのが、たまたま回診に来た担当医だった。

「やれることはやっていますが、残念ながらある一定のレベル以上は回復しません。状態は見た目ほどは芳しくないということを、ご認識下さい。」

臥せていても、頭脳明晰の祖母に聞かれないように、ボソボソと小声でしゃべる医者。年齢から言っても、なにが起こっても不思議ではないと言われれば、その通りかもしれないが、筆者には予防線を張ってるようにしか聞こえず、正直腹が立った。

翌週の25日、今度は妻を連れて見舞いに行った。その前の週末に母と弟が訪れて、徐々にではあるが元気になっていると聞かされて、少し安心しながら病室に入ったのだが、苦しそうな祖母の姿がいきなり目に飛び込んできた。小便の出が悪く、利尿剤もあまり効果がないのだそうで、それが祖母を苦しめていたのだ。苦しい息の中、しかし祖母はちゃんと我々を認め、妻に遠いのにわざわざすみませんと挨拶をする。しかし、さすがにそれ以上の会話は交わせない。少し側にいた後、子供連れでやった来たいとこと交代するように病院を出た。

買い物をして、子供達を預けてあった義母の家に戻った途端、携帯が鳴った。実家の母から、祖母の容態が良くないという知らせである。今から父と一緒にこちらに向かうとのことで、慌てて病院に取って返すと叔父や叔母達が詰めている。

「急に苦しがって。」

とずっと付いている叔母はもう涙ぐんでいる。叔父もいとこも懸命に手足をさすっている、筆者も及ばずながら戦列に加わる。やがて祖母の家の現在の当主であるもう1人の叔父、更には仕事を終えた孫達も続々駆けつけ、病室は沈痛な空気に包まれた。叔父達の呼びかけにしかし、祖母はちゃんと反応する。わかっているのだ、そしてなにやら口を開いて言っているので、耳を澄まして、側に寄ると

「私は大丈夫だから、みなさんもうお引取り下さい、解散。」

と言うではないか。この期に及んで回りに気を使う祖母の凄さに、筆者は舌を巻くしかなかった。しかし、いくら解散と言われても、はいそうですかとはとても言えず、一同がそのままでいると、祖母はまた少しずつ落ち着きを取り戻して行った。結局、この日はこのまま本当に解散となるのだが、「後ろ髪を引かれる」というのはこういう思いなのかというのをまざまざと実感しながら、筆者は帰路に着いた。

それから1週間、いい方にも悪い方にも、祖母の容態に、劇的な変化は訪れなかった。そして3月4日、水曜。この日は筆者にとって1週間ぶりの休日だった。おばあちゃんの所へ行かなくちゃという思いはあったが、疲れもたまっていた。まだ、頑張ってくれるだろう、次の休みには必ず・・・だが、運命の時はやって来てしまった。

翌日午前1時過ぎ、自宅の電話が鳴った。既に筆者も家族も眠りについていたが、私と妻はすぐに飛び起きた。電話に向かう妻の後姿を見ながら、筆者はすべてを覚悟せざるを得なかった。

「おばあちゃん、亡くなっちゃったって。」

子供達を起こさぬように小声で筆者に告げる妻、5日に日付が変わった直後のことだったらしい。眠るようにス-と息を引き取ったのだそうだ。義理も含めると9人の子供のうち6人、10人いる孫のうち4人がその時、近くにいたのに、最期に立ち会えたのはその夜、たまたま付き添いの当番に当たっていた祖母の末っ子の妻である叔母1人だった。なぜ、俺は昨日おばあちゃんに会いに行かなかったのだろう、あんなに可愛がってくれた大好きなおばあちゃんに・・・おばあちゃん、なぜせめて後3日頑張ってくれなかったのだ、後悔、先に立たず・・・。

7日、自宅に戻っていた祖母に今年5度目の対面をした。化粧を施された祖母の顔は病院でのやつれ切った表情とは別人であった。しかし、過去4回、どんな時でも私を認め、よく来てくれたと喜んでくれた祖母は、静かに横たわり、目を閉じたまま、もう一言も私に話しかけてはくれなかった。そして翌日、告別式を前に荼毘にふされた祖母は、小さな木箱に納められ、もう2度と会うことも叶わなくなってしまったのである。

こういう言葉が本当にあるのかどうかは知らないが、筆者は紛れもない「グマコン」グランドマザーコンプレックス、俗に言う「おばあちゃんっ子」である。私は内孫ではなく、距離も離れていて、孫の中では接触が少なかった方ではあるが、それでも祖父母にとっては初めての男の孫であり、本当に可愛がってもらった。小学生くらいまでは、夏休みともなると文字通り、祖父母の所に入り浸っていたと言っても決して過言ではない。

若い頃から働きづめで5人の子供を育て、家業を長男に譲って隠居。さぁ少しのんびりできるかという矢先に祖父が倒れた、脳溢血だった。以来、祖父が亡くなるまでの約20年、周りに子供も孫も大勢いるのに、ほぼ1人で祖父の面倒を見切った。今流で言えば「老々介護」である。しかし、一言のグチもこぼさず、明治生まれで孫である私たちには決して見せないような厳しい表情であれこれ命令してくる祖父に嫌な顔1つ見せなかった。それどころか

「お父さんが頑張ってくれれば、もうすぐ結婚65年になる。」

などともらして、その言葉を聞いた筆者の母はこの人は凄いと感心させられたと言う。その祖父が88歳のお祝いをした半年後に亡くなる。祖母の目標としていた65周年には2年足りなかった。祖父の遺体が病院から戻って来た夜、1人号泣する祖母をやはり母が目撃している。お父さんもやっと私を解放してくれた、そんなことを言ったって誰も責めやしないのに、その時母は思ったそうだ。

祖父を失った祖母は周囲の勧めを振り切り、1人暮らしを選択する。それから14年間、体調がよほど悪い時以外は、すべて1人で身の回りことを片付けていた。それどころではない、祖母が88歳になった年に、週に1度ではあるが居候が飛び込んで来ることになった。筆者である。この年、筆者は今の妻と交際を始めた。休みが合わないのがネックだったが、当時筆者の週休日が連休だったことが幸いし、休日初日の夜に、彼女の仕事が終わった後にデートを重ねることができた。それはいいのだが、デートの後、妻を送り届けたら、もう電車などない。それを解決してくれたのが、祖母の存在だった。妻と祖母がたまたま同じ地区に住んでいたのである。

デートの翌日、のこのこと11時近くになって寝ぼけ眼で起き出してくるいい年した孫の朝食を、嫌な顔もせずにきちんと毎回、祖母は用意してくれた。なかなか結婚できない不肖の孫の手助けをしてやらなければ、出来の悪い子ほど可愛いといったところだったのだろうか。交際1年、なんとか無事筆者が妻をモノにできたのはひとえに祖母の愛情の賜物と言って過言ではない。

そもそも、妻は私のいとこの同僚だったのだが、私と弟、好きな方を選びなと言い方で妻に紹介したらしい。年齢的には弟の方が絶対に釣り合いが取れるにも関わらず、妻が筆者を選んだのは「よくおばあちゃんと一緒に旅行に行ったりしてくれているから、兄貴の方が優しいんじゃないかな。」といういとこの父親である叔父の推薦の言葉があったからだそうだ。別に優しかったわけじゃない、好きな旅行を好きな祖母としていただけだったのに・・・こんなところでも祖母は筆者の点数稼ぎを助けてくれていたのだ。

告別式も終わり、自宅に引き上げる前に、筆者は祖母の家に回った。真っ暗になり、全く人の気配のなくなったその家は、否が応でも祖母が逝ってしまったという現実を筆者に突きつけていた。その後、祖母の遺骨が安置される叔父の家に回った。中に入ることはしなかったが

「おばあちゃん、おやすみなさい。また来ます。」

なんてつぶやいたら、涙があふれて来てしまった。

祖母の家に1つの湯呑み茶碗がある。子供の頃、大の相撲ファンだった筆者の当時のご贔屓力士の名前が入った湯呑みだ。

「おばあちゃん、これ僕のだからね。」

そんな子供の勝手な言葉を受け止めてくれた祖母は以来、30年以上、筆者が遊びに行く度にその茶碗でお茶を入れてくれた。もちろん最後になってしまったあの1月の時もそうだった。帰り道、そのことに思い至った筆者は帰宅後、実家の母に連絡を入れた。母は今度の水曜に、初七日でまた祖母の所へ行く。

「あの茶碗貰って来てよ、おばあちゃんはいつも必ず、あの茶碗で俺にお茶を入れてくれた。他になんにもいらない、だけどどうしてもあの茶碗だけは・・・。」

言いながら、不覚にも泣き出した筆者の耳に、たしなめるような母の言葉が響いた。

「あんた、いい年していつまで、メソメソしてるの。おばあちゃんは頑張ってあんなに長生きしてくれたのに、あんたがそんなんじゃ、喜ばないわよ。茶碗の件はわかったから、じゃあね。」

そうだ、悲しいのは俺だけじゃない。自分の母親を喪った母の方がよほどつらいに違いないのに・・・不甲斐ない息子、不甲斐ない孫である。

そして今日から筆者は仕事に戻った。ただ、正直に告白すると、ふと祖母のことを思い出して涙ぐんでしまったのは1度や2度でなかった、もちろん周りに人がいない時ではあるが。もう祖母はいない、もう絶対に会うことはできないという現実に胸をつかれて、自然と涙が溢れ出して来てしまうのだ。おセンチなんて言葉がどうやっても似合わない年になってしまったオッサンが、しかしこの悲しみを振り切るには、しばらく時間がかかってしまいそうである。

「おばあちゃん、今まで本当にありがとう。俺はおばあちゃんの孫に生まれて幸せでした。どうか、安らかに、そして久しぶりに会ったおじいちゃんと仲良くね。」

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2009年3月 4日 (水)

反撃の狼煙?

どんなに国民から非難を受け、野党から罵声を浴びせられながらも、麻生そして自民党がひたすら耐え忍び、時間稼ぎを続けて来たのは、ひとえにこの時を待っていたからである。もはや自力での形勢挽回は全く不可能なところまで、追い詰められた自民党にとっては、敵のボーンヘッドが起こることに一縷の望みを託すしかなかったのである。そしてついにその時は来た。

「小沢一郎民主党代表第一秘書ら3人、政治資金規正法違反容疑で逮捕」

である。衝撃は永田町を、そして日本国内を駆け巡った。

民主党と小沢は動揺し、また憤っている。「国策逮捕」との声すら上がっている。西松建設の違法献金疑惑では自民党の政治家の名前も取り沙汰されており、小沢だけが狙い打ちされた感は確かに否めないし、選挙も近く、また予算審議中というこの時期に、あえて動いた検察に対する疑問の声もある。

小沢本人は記者団に対しては、昨日は一言もしゃべらなかったが、民主党の幹部会では

「すべて適切に処理しているから安心して欲しい。逮捕は全く理解に苦しむ。」

と力説していたそうだし、それを受けて幹部連も火消しに躍起である。

今日、小沢は記者会見を開いて、釈明するようだが、上記の趣旨に沿った説明をしてくるだろう。強弁ではなく、本人にも事務所サイドにも恐らく本当に違法性の認識はなかったんだろうと思う。しかし「違法性の認識がない」ことと「違法性がない」ということは、全く別である。

先走ったことを書くが、小沢は恐らく辞任に追い込まれる。あの性格から、先手を打って放り出す可能性もある。どの道、「小沢代表」の下で民主党が総選挙に望む可能性は消えた、ということは「小沢首相」誕生の可能性もなくなったということだ。評価は人によって分かれるが、1度は首相として国政を担って欲しいと期待する人は少なくなく、またその可能性が何度かあったにも関わらず、結局はその座に手が届かなかったというのは、やはり小沢という政治家の持って生まれた天運なのだろう。本人が、それを悔いているかは、また別問題だが。

今日の記者会見で事態が沈静化する可能性はまずない。適切に処理しているという小沢の主張が国民の共感を呼ぶとは思えず、あのぶっきらぼうな表情と口調で言い放つ (であろう)マイナス効果の方は、計り知れない。更に「俺だけじゃない」といった主張をし、検察批判まですると考えられるが、これもかえって逆効果になるとしか思えない。こういう問題では、与党よりむしろ野党の方がハードルが高くなるものなのである。

もちろん、自公サイドはここぞとばかり攻め込んでくるし、ただでさえ最近なにかとギクシャクしている社民、国民新党といった野党の仲間達も、冷ややかに距離を置くだけだろう。党内のアンチ小沢も

「このままでは選挙が戦えない。」

と、どこかの政党の連中がよく口にしているような台詞を吐いて、騒ぎ出すのも時間の問題で、居座ったところで全く展望が開けず、結局辞任という顛末になって行くだろう。

とにもかくにも、政権近しということでまとまっていた寄せ集め政党も、小沢という重しがなくなった途端、百家争鳴。蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、後を決めるにしても岡田か菅か鳩山か、どの道話し合いなんかつかないから、代表選をやるしかなく、そうなると麻生を降ろして総裁選を、と言っていた自民党を批判するどころの話ではなくなり、その上「選挙に強い」と言われる小沢の、この期に及んでの退場は迫り来る決戦には致命傷になりかねない。

思えば前回の参院選に勝利してから1年半余り。チャンスは何度もありながら、勇気を欠き、自公政権を解散に追い込むことがてきなかった。今国会も、敵があれほどまでに間抜けな言動を繰り返し、小泉ではないが、国民の多数が呆れ果てているというのに、なおかつ勝負を避け、友党のはずの国民新党や社民党の意見の耳も貸さずに、予算成立を事実上黙認、内閣不信任案を提出して、自民党の内乱を期待するという戦略は完全なるあなた任せ、自力での政局転換を放棄したその姿勢に、国民の共感など得られるはずがない。グズグズと時間を浪費しての、この結末は「身から出たサビ」という言葉がピッタリではないか。

一方思わぬ(?)僥倖に、自然とニヤついてくる表情を懸命に引き締めている自民党だが、これで一転反転攻勢だと思ってるとしたら甘すぎる。民主党がコケたからと言って、自民党の支持が回復し、麻生内閣の支持率が劇的に反転するとも、とても思えない。

前回、麻生が中川の後任を補充しなかったのは、予算成立後辞任の意思を固めたからだと書いたが、これは全くの見当違いだったようで、ご当人は意欲満々。予算成立後にミニ内閣改造を行い、それを餌に党内を引き締めにかかるつもりというから、まぁ頼もしい限りではある。

ただ、こんな泥舟のような内閣に、好き好んで新たに入る奴がいるのかとは思う。今回の小沢のつまづきを見て、多少のヤマっ気を出す奴が果たしているか、どうか。どの道、あんまりみすぼらしい人材しか入れられないようでは、これまた逆効果であろう。

とにかく、民主党は麻生攻撃どころの騒ぎではなくなり、それにより自民党もなんとなく麻生を降ろすキッカケを失い、かくして民主党の混乱極まったところを見計らって麻生内閣の下で解散、4月選挙の気配濃厚であろうか。

ただ、自・民両党の体たらくに、国民の政治不信は極まり、投票率はますます低下。そうなると学会という「固定票」を持つ自・公が浮上。が、2/3には当然届かず、過半数もやはり厳しい。となると、衆参ねじれ現象はいよいよ悪化。かくして政界は仁義なき「再編騒動」に突入という、筆者にとっては最悪のシナリオが極めて現実的になって来てしまった。やっぱり小沢一郎なんかを頼みにしたのが、根本的に間違っていたのかなぁ・・・。

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