祖母が亡くなった。齢94、人は天寿をまっとうしたと言う、不足のない年齢だとも言う。自分だって、人にならそう言って慰めるかもしれない。でも身内としては、そんな簡単に割り切れるものではない。
今年に入って祖母には5回会えた。1月7日、正月の挨拶に行った時、その死を予感させるものはなにもなかった。いつもの通り優しく、エレガントでそしてかくしゃくとした祖母がそこにいた。電話をしてから行ったのだが、少し遅れてしまい、急いで行くとなんと寒空に門の外で待っている。
「遅いから心配になって。」
そう言ってホッとした表情を見せた祖母に筆者は本当に申し訳ないことをしたと思った。話をしたのは1時間半ほどだったが、頭はシャープ、そしてやることにそつがない。自分で我々にお茶を入れてくれ、卵アレルギーで食べられる菓子が限られているひ孫である筆者の子供達に配慮して、出してくれるのはせんべいとみかん。そして当たり前のようにお年玉をくれる。下の子がいくつになるかと尋ねられたので
「もうすぐ誕生日で2歳になります。」
とうっかり正直に答えると、さりげなく席を立つ。その意味がわかって、しまったと思う間もなく、戻ってくると
「はい、お誕生日おめでとう。」
と今度は誕生祝いを差し出す。我が子が2人とも1月生まれだということをちゃんと思い出して、また2枚の祝い袋だ。本来なら、こちらがおこずかいを差し上げなくてはならないのに、とても受け取れないと断っても、ニコニコしながら、しかし決して引っ込めることはしない。孫がひ孫を連れて、訪ねて来るのが、本当に楽しみだったらしい。
あっという間に時間が過ぎ、お暇しなければならない時間となり、妻が湯のみを洗おうとすると、それを押しとどめ、暗くなったから早く帰った方がいいと言う。またしてもお言葉に甘えて玄関を出ると、一緒に出て来る。寒い時でも暑い時でも、祖母は我々を見えなくなるまで必ず見送ってくれる。寒いからもう家の中に入って下さいと言っても、絶対に最後まで見送ってくれた。みんなで手を振り、急いで車をスタートさせる、祖母に少しでも早く暖かい所に戻ってもらうにはそうするしかないのである。小さくなる祖母の姿をバックミラーで眺めながら、しかしこれが「元気な祖母」の見納めになるなんて、筆者は夢にも思わなかった。
それから10日後、温泉土産を渡そうと何の気なしに祖母の家に立ち寄った時、筆者は愕然とさせられる。そこには今まで見たことのない祖母がいた。聞けば腰を痛めて、動けないのだと言う。うずくまるように丸まって椅子に腰掛ける祖母は、急に小さくなり、そして急に歳をとってしまったように見えた。別人のようになってしまった祖母に、筆者は94という祖母の実年齢を意識せざるを得なかった。
2月10日、胸の痛みを訴えた祖母は救急車で運ばれ、入院する。心筋梗塞、出産以外では初めての入院だった。だが、心配をかけたくないという祖母の意思で、遠くに住む子供、孫にはすぐには知らされず、筆者が知ったのはなんと3日後、やきもきしても仕事が立て込んでいて身動きがとれない。そうこうしているうちに15日に容態が悪化、会わせたい人がいればすぐに呼ぶようにという医師の言葉に、親族が大慌てで集結する。筆者の母親も飛んでいったそうだが、この日は日曜、仕事をしている筆者には知らせも来ない。そして翌日早朝、母親から連絡が入って、筆者は初めて自分だけが状況から取り残されていることを知る。だが休めない、「孫」でしかない自分がこの時ほど恨めしかったことはない。
だが、事態は急変する。朝の電話では、しばらく帰れないと言っていた母が、戻ってくると言う。どうやら薬が効いて、回復して来たので、一旦引き上げると言うのである。ホッと一息ついた筆者が、ようやく念願かなって祖母の所に駆けつけられたのは18日。それなりの覚悟を決めて病室を訪ねた筆者を祖母は、ちゃんとわかってくれた。会話もしっかり交わせたし、もちろんあのかくしゃくたる祖母とはほど遠いにしても、危機は脱したのではないか。そんな淡い期待をあっさり打ち砕いてくれたのが、たまたま回診に来た担当医だった。
「やれることはやっていますが、残念ながらある一定のレベル以上は回復しません。状態は見た目ほどは芳しくないということを、ご認識下さい。」
臥せていても、頭脳明晰の祖母に聞かれないように、ボソボソと小声でしゃべる医者。年齢から言っても、なにが起こっても不思議ではないと言われれば、その通りかもしれないが、筆者には予防線を張ってるようにしか聞こえず、正直腹が立った。
翌週の25日、今度は妻を連れて見舞いに行った。その前の週末に母と弟が訪れて、徐々にではあるが元気になっていると聞かされて、少し安心しながら病室に入ったのだが、苦しそうな祖母の姿がいきなり目に飛び込んできた。小便の出が悪く、利尿剤もあまり効果がないのだそうで、それが祖母を苦しめていたのだ。苦しい息の中、しかし祖母はちゃんと我々を認め、妻に遠いのにわざわざすみませんと挨拶をする。しかし、さすがにそれ以上の会話は交わせない。少し側にいた後、子供連れでやった来たいとこと交代するように病院を出た。
買い物をして、子供達を預けてあった義母の家に戻った途端、携帯が鳴った。実家の母から、祖母の容態が良くないという知らせである。今から父と一緒にこちらに向かうとのことで、慌てて病院に取って返すと叔父や叔母達が詰めている。
「急に苦しがって。」
とずっと付いている叔母はもう涙ぐんでいる。叔父もいとこも懸命に手足をさすっている、筆者も及ばずながら戦列に加わる。やがて祖母の家の現在の当主であるもう1人の叔父、更には仕事を終えた孫達も続々駆けつけ、病室は沈痛な空気に包まれた。叔父達の呼びかけにしかし、祖母はちゃんと反応する。わかっているのだ、そしてなにやら口を開いて言っているので、耳を澄まして、側に寄ると
「私は大丈夫だから、みなさんもうお引取り下さい、解散。」
と言うではないか。この期に及んで回りに気を使う祖母の凄さに、筆者は舌を巻くしかなかった。しかし、いくら解散と言われても、はいそうですかとはとても言えず、一同がそのままでいると、祖母はまた少しずつ落ち着きを取り戻して行った。結局、この日はこのまま本当に解散となるのだが、「後ろ髪を引かれる」というのはこういう思いなのかというのをまざまざと実感しながら、筆者は帰路に着いた。
それから1週間、いい方にも悪い方にも、祖母の容態に、劇的な変化は訪れなかった。そして3月4日、水曜。この日は筆者にとって1週間ぶりの休日だった。おばあちゃんの所へ行かなくちゃという思いはあったが、疲れもたまっていた。まだ、頑張ってくれるだろう、次の休みには必ず・・・だが、運命の時はやって来てしまった。
翌日午前1時過ぎ、自宅の電話が鳴った。既に筆者も家族も眠りについていたが、私と妻はすぐに飛び起きた。電話に向かう妻の後姿を見ながら、筆者はすべてを覚悟せざるを得なかった。
「おばあちゃん、亡くなっちゃったって。」
子供達を起こさぬように小声で筆者に告げる妻、5日に日付が変わった直後のことだったらしい。眠るようにス-と息を引き取ったのだそうだ。義理も含めると9人の子供のうち6人、10人いる孫のうち4人がその時、近くにいたのに、最期に立ち会えたのはその夜、たまたま付き添いの当番に当たっていた祖母の末っ子の妻である叔母1人だった。なぜ、俺は昨日おばあちゃんに会いに行かなかったのだろう、あんなに可愛がってくれた大好きなおばあちゃんに・・・おばあちゃん、なぜせめて後3日頑張ってくれなかったのだ、後悔、先に立たず・・・。
7日、自宅に戻っていた祖母に今年5度目の対面をした。化粧を施された祖母の顔は病院でのやつれ切った表情とは別人であった。しかし、過去4回、どんな時でも私を認め、よく来てくれたと喜んでくれた祖母は、静かに横たわり、目を閉じたまま、もう一言も私に話しかけてはくれなかった。そして翌日、告別式を前に荼毘にふされた祖母は、小さな木箱に納められ、もう2度と会うことも叶わなくなってしまったのである。
こういう言葉が本当にあるのかどうかは知らないが、筆者は紛れもない「グマコン」グランドマザーコンプレックス、俗に言う「おばあちゃんっ子」である。私は内孫ではなく、距離も離れていて、孫の中では接触が少なかった方ではあるが、それでも祖父母にとっては初めての男の孫であり、本当に可愛がってもらった。小学生くらいまでは、夏休みともなると文字通り、祖父母の所に入り浸っていたと言っても決して過言ではない。
若い頃から働きづめで5人の子供を育て、家業を長男に譲って隠居。さぁ少しのんびりできるかという矢先に祖父が倒れた、脳溢血だった。以来、祖父が亡くなるまでの約20年、周りに子供も孫も大勢いるのに、ほぼ1人で祖父の面倒を見切った。今流で言えば「老々介護」である。しかし、一言のグチもこぼさず、明治生まれで孫である私たちには決して見せないような厳しい表情であれこれ命令してくる祖父に嫌な顔1つ見せなかった。それどころか
「お父さんが頑張ってくれれば、もうすぐ結婚65年になる。」
などともらして、その言葉を聞いた筆者の母はこの人は凄いと感心させられたと言う。その祖父が88歳のお祝いをした半年後に亡くなる。祖母の目標としていた65周年には2年足りなかった。祖父の遺体が病院から戻って来た夜、1人号泣する祖母をやはり母が目撃している。お父さんもやっと私を解放してくれた、そんなことを言ったって誰も責めやしないのに、その時母は思ったそうだ。
祖父を失った祖母は周囲の勧めを振り切り、1人暮らしを選択する。それから14年間、体調がよほど悪い時以外は、すべて1人で身の回りことを片付けていた。それどころではない、祖母が88歳になった年に、週に1度ではあるが居候が飛び込んで来ることになった。筆者である。この年、筆者は今の妻と交際を始めた。休みが合わないのがネックだったが、当時筆者の週休日が連休だったことが幸いし、休日初日の夜に、彼女の仕事が終わった後にデートを重ねることができた。それはいいのだが、デートの後、妻を送り届けたら、もう電車などない。それを解決してくれたのが、祖母の存在だった。妻と祖母がたまたま同じ地区に住んでいたのである。
デートの翌日、のこのこと11時近くになって寝ぼけ眼で起き出してくるいい年した孫の朝食を、嫌な顔もせずにきちんと毎回、祖母は用意してくれた。なかなか結婚できない不肖の孫の手助けをしてやらなければ、出来の悪い子ほど可愛いといったところだったのだろうか。交際1年、なんとか無事筆者が妻をモノにできたのはひとえに祖母の愛情の賜物と言って過言ではない。
そもそも、妻は私のいとこの同僚だったのだが、私と弟、好きな方を選びなと言い方で妻に紹介したらしい。年齢的には弟の方が絶対に釣り合いが取れるにも関わらず、妻が筆者を選んだのは「よくおばあちゃんと一緒に旅行に行ったりしてくれているから、兄貴の方が優しいんじゃないかな。」といういとこの父親である叔父の推薦の言葉があったからだそうだ。別に優しかったわけじゃない、好きな旅行を好きな祖母としていただけだったのに・・・こんなところでも祖母は筆者の点数稼ぎを助けてくれていたのだ。
告別式も終わり、自宅に引き上げる前に、筆者は祖母の家に回った。真っ暗になり、全く人の気配のなくなったその家は、否が応でも祖母が逝ってしまったという現実を筆者に突きつけていた。その後、祖母の遺骨が安置される叔父の家に回った。中に入ることはしなかったが
「おばあちゃん、おやすみなさい。また来ます。」
なんてつぶやいたら、涙があふれて来てしまった。
祖母の家に1つの湯呑み茶碗がある。子供の頃、大の相撲ファンだった筆者の当時のご贔屓力士の名前が入った湯呑みだ。
「おばあちゃん、これ僕のだからね。」
そんな子供の勝手な言葉を受け止めてくれた祖母は以来、30年以上、筆者が遊びに行く度にその茶碗でお茶を入れてくれた。もちろん最後になってしまったあの1月の時もそうだった。帰り道、そのことに思い至った筆者は帰宅後、実家の母に連絡を入れた。母は今度の水曜に、初七日でまた祖母の所へ行く。
「あの茶碗貰って来てよ、おばあちゃんはいつも必ず、あの茶碗で俺にお茶を入れてくれた。他になんにもいらない、だけどどうしてもあの茶碗だけは・・・。」
言いながら、不覚にも泣き出した筆者の耳に、たしなめるような母の言葉が響いた。
「あんた、いい年していつまで、メソメソしてるの。おばあちゃんは頑張ってあんなに長生きしてくれたのに、あんたがそんなんじゃ、喜ばないわよ。茶碗の件はわかったから、じゃあね。」
そうだ、悲しいのは俺だけじゃない。自分の母親を喪った母の方がよほどつらいに違いないのに・・・不甲斐ない息子、不甲斐ない孫である。
そして今日から筆者は仕事に戻った。ただ、正直に告白すると、ふと祖母のことを思い出して涙ぐんでしまったのは1度や2度でなかった、もちろん周りに人がいない時ではあるが。もう祖母はいない、もう絶対に会うことはできないという現実に胸をつかれて、自然と涙が溢れ出して来てしまうのだ。おセンチなんて言葉がどうやっても似合わない年になってしまったオッサンが、しかしこの悲しみを振り切るには、しばらく時間がかかってしまいそうである。
「おばあちゃん、今まで本当にありがとう。俺はおばあちゃんの孫に生まれて幸せでした。どうか、安らかに、そして久しぶりに会ったおじいちゃんと仲良くね。」
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