いやぁ、それにしても打てないチームを応援するというのは本当にしんどい。土曜日、対ヤクルト戦を久々にじっくり見たのだが、とにかくくたびれた。やっとこさ取った1点を守ろうと、毎回のようにノーアウトのランナーを背負いながらも、敵の拙攻にも助けられ、グライシンガーは懸命に投げ続けたが、7回に8番打者に打たれ、ついに同点に追いつかれてしまう。もっともこちらの1点も7番が叩き出したのだが。勝ちがなくなっても、グライシンガーは腐らずに投げ、後を継いだ山口もまず、危なげなく2イニングを抑え、決めてくれたのはこのところ神かがった感もある亀井。今日も亀井の一撃で勝ったようで、優勝するにはこういうラッキーボーイ的存在は確かに必要ではある。当面の敵の一つであるヤクルトを3タテしたのも、めでたいことなのだが、こう勝ち味が遅いとまだまだ先は長いだけに厳しい。戦いぶりの安定感では明らかに中日の方が上回っていることは認めざるを得ない今、打線のつながりをどう構築して、リードを保って行けるか、原監督の手腕が問われる時である。
筆者が見た頃のV9エース堀内恒夫はもう現役最晩年だった。なんともとぼけたメガネをかけた顔で、たまに敗戦処理に現れては大歓声を浴びていた。が、1983年の6月、場所は阪神ファン一色の甲子園、ローテーションの谷間で久々の先発マウンドに上った堀内は6回途中まで、タイガース打線を翻弄、結果として現役最後の勝利を上げる。そのピッチングはまさに芸術的、一世を風靡した大投手がまさに最後の力を振り絞っての置き土産と見えた。それだけではない、それから4か月後、地元後楽園で設定された引退試合で彼は回って来た打席でなんとホームランを放つ。千両役者は最後までやることが違っていた。
堀内の後にエースの座に就いた小林繁は理不尽としか言い様のない理由でジャイアンツを放出され、その後は、怨念むき出しで立ち向かってくる明確な敵になっていた。その後のエース新浦壽夫は、監督やファンの期待が自分から他の若い投手に移ったことですっかりやる気を失い、やがて日本球界を去って行った。数年後、再びその姿を現した彼は、ジャイアンツ時代とは全く別人の技巧派投手となって、ジャイアンツの前にたびたび立ちふさがることになる。そしてジャイアンツのエースは「あの男」の時代になっていた。そう、小林をチームから追い、新浦の輝きを奪ったあの男の・・・。
江川卓、高校時代から「怪物」の名を欲しいままにした彼は常に、世間の注目を浴びる存在だった。そしてそれは、あの「事件」でピークに達する。多くの悪意に満ちた視線と、どれだけやれるのかという好奇の視線の中、ジャイアンツに入団した江川はやはり本物だった。筆者が実際に見た中で、最高の投手は誰かと聞かれれば、文句なく江川卓だと答える。トルネードの野茂英雄が豪快なフォームで日米を股にかけてどんなに投げまくっても、平成の大エース斎藤雅樹が完投を重ねても、松坂大輔のうなるような快速球に何度息を呑んでも、しかしその思いは変わらない。それは決して筆者の幼い頃の記憶が美化されているからだけではないはずである。
特に1980年後半戦から82年前半戦にかけての2年間の江川はほぼ無敵だった。見ていて負けるということがほとんど考えられなかった。9回、完投直前になるとストレートがいよいようなりを上げ出して、三振の山を築く投手。5回を投げれば「試合を作った」と意気揚々と引き上げ、あとはリリーフに任せてベンチで観戦しているだけの昨今の先発投手を見慣れていると、やはり「怪物」としか言い様がない。その上、その江川の球種はストレートとカーブ、たった2つしかなかったのである。
そんな怪物に牙を剥き続けた男、それが「雑草」西本聖だった。年齢は江川の1つ下、しかし入団は江川より5年早い。ドラフト外入団といういわばおまけのような存在から、文字通り這い上がってローテーション投手の座をつかみつつあったその時、割り込むように現れた怪物に、雑草は臆することなく挑みかかった。己の存在感の証明の為に。
西本と言えば思い出す試合が2つある。1つは81年、直前に夫人が事故で重傷を負うという大アクシデントに見舞われながら、初の開幕投手を見事に完投勝利で飾った試合。もう1つはその7年後のやはり開幕戦、鳴り物入りでパリーグから移籍して来た落合博満に対して、西本はなんと全打席、全球シュートで勝負を挑んで見せた。辛うじて1安打はしたものの、すっかり調子を狂わされた落合はその年は結局、期待されたほどの成績を上げられなかった。江川以外のセの投手なんて目じゃない、そううそぶいていた落合の鼻っ柱を折った西本の気迫は忘れられない。
そう、江川がストレートなら西本はシュートである。江川は言う。
「僕が現役時代、他の投手の球ですごいと思ったのはただ1つ、西本のシュートだけだった。」
性格も、球歴も、そして投球スタイルもなにからなにまで正反対だった2人。自分に対するライバル心を隠そうともせず、むき出しに挑みかかってくる西本に対し、江川は我関せず、軽くあしらっていたのかと筆者はずっと思って来た。しかし実際はとんでもなかった。
「西本、今日は打たれてくれ。明日は俺が抑える、そうすれば俺の評価が上がる。」
江川はある時期からずっと、そう思いながら、マウンドの西本を見ていたと言う。西本の言葉はもっと激しい。
「打たれろ、負けろ。」
阪急ブレーブスの黄金時代を支えた山田久志は事あるごとにこう言う。
「今は右のエースに左のエース、リリーフエースに中継ぎエースまでいる。冗談じゃない、エースなんてそんな安売りするもんじゃない。『エース』と呼ばれる存在はチームにただ1人、それが本当のエースなんだ。」
そして、それと同じ意味の言葉を江川も西本も異口同音に吐いた。
「エースは1人。」
当時のエースは江川だった、それを西本も認めざるを得なかった。だからこそ、西本は江川を必死に引きずり落としにかかり、江川もまたそんな西本を懸命に蹴落とそうとした。たった1つのものを死に物狂いで奪い合う、本当の「ライバル」とはそういうものなのだろう。そこには一片の友情もなく、ただ憎しみしか生まれないのかもしれない。
絶対的なエースは江川、しかしここ一番で頼りになるのは実は西本、当時筆者だけでなく、かなりのジャイアンツファンはそう思っていたのではないか。1982年、ジャイアンツは1勝の差で優勝を逃すのだが、ここで勝てば優勝確実という大洋(現横浜)との最終戦に先発した江川は大洋の一発攻勢に沈み、ライバル中日に息を吹き返させてしまった。その2年後、球団創立50周年の年にVを義務づけられて開幕を迎えたジャイアンツはエース江川をオープニングピッチャーに送り込んだが、大乱調。解説の青田昇が
「よりによってジャイアンツは1番調子の悪いのを開幕投手にしたんじゃないの。」
と呆れ果てていたのを思い出す。どちらのときも西本が絶好調なのにも関わらず、監督の
「エースは江川。」
というこだわりが裏目に出てしまったのである。そして、それが極まったのが83年、西武との日本シリーズだった。このシリーズのことは、前にも少し触れたことがある。思い出したくもない、本当に悪夢のようなシリーズだった。シリーズ直前にケガをしたこともあって、江川は出ると打たれの無様なピッチング、一方の西本はそんな江川の尻拭いをするかのように、キッチリ完投勝利でチームを救う。その2年前のポンハムとのシリーズ同様、頼りになるのは西本、みんなにそう思わせる内容だった。そしてあの運命の第6戦がやってくる。
日本一まで後1勝と迫っていたジャイアンツは土壇場の9回、現横浜投手コーチの杉本正から中畑清が起死回生の逆転三塁打を放ち、いよいよクライマックスを迎えた。そして9回、最後を締めるべくマウンドに上がったのは2日前に完投した西本だった。筆者は当然のことと受け止めた、たぶん多くのジャイアンツファンも同じ気持ちだっただろう、今までの投球内容から見て、江川のリリーフなど考えられなかったと言ってもいい。
あのもどかしさ、いまいましさはあれから26年も経つというのに、まざまざと思い出せる。ワンアウトを取っていけると思ったのもつかの間、以降の西武の打者の放った打球はボテボテの当たりながら、ことごとく我々ジャイアンツファンを嘲笑うかのように、三遊間を抜けて行く。そして同点に追いつかれた当たりもショート鈴木康友が追いつきながらもどこにも投げられない。あの回、西本が打たれた当たりでいわゆる「いい当たり」は1つもなかった。なのに同点、そして延長10回、代わって出て来た江川は今までの流れそのままの生彩のないピッチングでサヨナラ負け。西本で勝てなかったのなら仕方がない、そう思うしかなかった。
ところが内情は全く違っていたらしい。あの勝ち越した9回、当初行くのは江川の予定だった。確かに投球練習をしていたのはずっと江川1人だった。が、勝ち越したと同時に西本がブルペンに走る、ベンチに迷いが生じたのだ。それでも江川は行く気満々だった、エースのプライドに賭けて、ここで行くのは自分しかいない、そう信じていた。
「あの時は(肉離れを起こしていた足が)切れてもいいからリリーフ行こうと思っていた。自分しかいないと思ってた。僕は、結構この試合、野球人生選手生命を賭けていた。」
自らクールな性格と認める江川が、この時の心境をこう言い切っている。ところが・・・藤田元司監督が告げたリリーフは「西本」だった。このシリーズでの両者の調子、昨年終盤の痛い負け、藤田監督の決断はわかる気がする。だが問題は、本来なら意気に感じてマウンドに駈け上がらなければならない当の西本を含むチームのほぼ全員が、この起用を想定していなかったことだった。
西本は大決戦となるはずの第7戦の先発、みんながそう思っていた。しかし、第6戦を、あと1イニングを抑えれば、第7戦を戦うまでもなく、栄冠はこの手につかむことができる。藤田監督の方針変更を責めることはできないと思う。だが、この決断は西本を動揺させ、江川の心を折ってしまった。10回の江川は単に不調を引きずっていただけでなく、もう抜け殻になってしまっていたのだ。
続く7戦を思い出すのはもっとつらい。中1日で先発のマウンドに立った西本は、2点のリードを懸命に守り抜こうと渾身の投球を続けたが、7回テリーに決め球のシュートを左中間に運ばれ、走者一掃の逆転タイムリーを浴びる。その前、ノーアウト1塁から投手ゴロを弾いてゲッツー一転無死一、二塁になってしまったのが、すべてだったのかもしれない。守備の名手とうたわれ、実際ダイヤモンドグラブ賞を何度も受賞している彼が、おあつらえ向きのゲッツーゴロをつかみ損ねて、自らピンチを広げ、そして打たれた。疲れもあっただろう、しかしこんなことを言っては失礼かもしれないが、そこには、西本といい、中畑といい、真のヒーロー、真のナンバーワンになれない男の運命が感じられてならない。
「僕はいつもNO2、NO1になったことがない。でもあそこで勝ってれば(江川に)勝ったと思えた試合だったかもしれない。」
西本聖悔恨の述懐であり
「俺なら勝てたと思ってる、今でも。あの状況で行ったら、俺は抑えたという自信は今でも持っている。」
一方の江川卓の譲れないプライドがそこにあった。
2人のライバル関係はそれから4年後、江川の突然の引退で、唐突に終わりを迎える。「空白の1日」騒動の時、当時既に23歳だった江川に対して
「大学を卒業したいい大人が、こんなことをしてもいいのかという判断力もないのか。」
という声があった。しかし、子供心に、それは違うと思った。ジャイアンツにどうしても入りたく、その方法があるから任せておけと言われれば、お願いしますと言うだろう。入団の経緯で江川を責めるのは酷だと、筆者は今でも思っている。だが、引退の時に彼は言った。
「選手にとって、唯一認められている権利は辞める権利。」
FAなんて夢のまた夢だった時代、確かにそうだったかもしれない。まして腕の折れるまで投げるなんていうのは彼の思考の中に全くなかっただろう。しかし、ジャイアンツがまだ、君を必要としていると言っている以上、彼にはそれに応える義務があったはずだ。事の善悪はともかく、あそこまでのことをして、また犠牲を払ってまでも、ジャイアンツは江川卓を迎え入れてくれたのである。
なのに、江川はそんなチームに後ろ足で砂をかけて去って行った、それも嘘までついて。その心根の醜さがやりきれない。以来、筆者はジャイアンツファンとして、江川という人物を許していない。可能性はかなり低くなったとは思うが、尚もくすぶり続ける彼の監督就任説。あんな人物を三顧の礼で、監督に迎え入れた時、筆者は間違いなく愛するジャイアンツと決別するつもりでいる。そんな日が、絶対に来ないことを祈るしかない。
江川の去ったジャイアンツの中で、西本は急速に居場所を失い、中日更にはオリックスと渡り歩き、最後の死に場所を求めて、恩師長嶋茂雄を頼って、94年再びジャイアンツのユニフォームを着る。しかし、その力の衰えは覆い隠すべくもなく、そのオフ引退する。なんとか引退の花道をと、長嶋はタイミングを計り続けていたが、チームの優勝決定が最終戦にまでもつれ込み、その余裕がなくなってしまったのは不運であった。結局西本は、自らがプロ野球人としての生まれ故郷と語る旧ジャイアンツ多摩川グラウンドで、有志が催した引退セレモニーでひっそりと去って行った。新装なった東京ドームのオープン戦で、華々しい引退試合を挙行してもらった江川のそれとは、やはりあまりにも対照的であった。
そして今年の6月、テレビ番組の企画で江川と西本は初めて、腹を割って話をした。去る7月20日にTBS系列で放映された「ライバル伝説 光と影」という番組内のことである。こういうものはタイムリーに取り上げるべきものなのだろうが、とにかく面白い番組だった、本当に久しぶりにいい番組をみせてもらった気がした。
対談の中で、西本に問われた江川ははっきり言った。
「(西本は)僕にとって、完全な唯一のライバル。」
有り余る才能に恵まれ、他人から嫉妬されることがあっても、決して嫉妬することがなかった江川卓の野球人生の中でたった一人現れたライバル、それが西本聖だった。江川がそれを認めたのは恐らく初めてだったろう。それに対して西本は
「素直に嬉しい。」
と答えていたのも印象的だ。そして江川の存在があればこそ、自分を高めることができたのだから本当に感謝していると言う西本に江川はこう答えた。
「それはお互い様だよ。お前がいなかったら、俺もっと手抜いてたもん。」
こういうウイットに富んだ江川のセリフはさすがである。
江川が西本を意識し始めたのは沢村賞を西本に奪われてからのことだそうだ。長くなってしまったから、この経緯にはもう触れないが、あれもひどい話だった。沢村賞の選考方法が現在のように、受賞経験者を中心とした選考委員会の手に委ねられることになったキッカケになったはずである。
以来、2人は憎悪とそれとは裏腹のなんとも形容のし難い敬愛の情をお互いに抱いたまま、競い合い続けてきた。そこにはきれいごとでは決して済まないどろどろした怨念と、しかし、全力を賭けて戦い抜いた者同士のみが共有できる奇妙な友情が感じられて感動させられた。
番組の最後に映った1枚の写真、2人がじゃれあう姿を写したあの写真はいつ、どのような場面で撮られたのだろう。本当に興味をそそられる。そう言えば、それまでのインタビューでは一貫して「江川さん」と呼びながら、実際に会うと西本は江川のことを「卓ちゃん」と呼んでいた。そこにも複雑微妙な2人の関係が息づいているようにも思える。スポーツって、野球っていいなぁ、そんなことを改めて感じさせてくれたひとときであった。
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