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2009年8月

2009年8月27日 (木)

駆け抜けて行く夏

21日の金曜から、1週間の夏季休暇をいただいている。休暇の過ぎて行くは今年の夏のようにあっという間、残りもう1日となってしまった。

不況の波は我が家にも例外なく押し寄せて来ている。手当、残業のカットで給料、ボーナスは目に見えて減っていき、逆に子供の成長に合わせて、出費は右肩上がり。今年はついに、恒例の夏の家族旅行を断念するという結論に達し、双方の実家に順番に転がり込んで「たかりの夏」でも過ごすかと、半ばやけっぱちで妻とも話していたのだが、その空気を一変させたのが、長男の無邪気な一言

「ねぇ、今年はどこに行くの?僕、山で虫取りがしたい。」

筆者にとってはほとんど唯一無二の趣味である旅行、これを止めることには実は内心、忸怩たるものがあったのだが、結局この子供の言葉の尻馬に乗り、筆者の両親を孫で釣り、同行者という名のスポンサーに仕立て、とにもかくにも決行にこぎつけたのは、休暇開始のわずか3日前のことであった。

23日の日曜から一泊、目的地は千葉白浜の「グランドホテル太陽」である。息子の虫取りの希望には添えなかったが、海水浴ならまぁ納得してくれるだろう。宿泊地には「いい温泉」をまず求める筆者として、本来あり得ないチョイスなのだが、一泊二食付き9800円は今の我が家にとっては魅力、「ぜいたくは敵」なのである。

天気はまぁまぁ、実家を10時には出ようと思っていたが、結局はほぼ1時間遅れのスタートは、妻を唯一の例外とした極度の朝弱集団である我が一族らしい。道路は順調、が海ぼたるは満車、入口が閉鎖されているのを筆者は初めて見た。通行料はETCを持っていると現在1000円らしいが、夏休みとあいまって、この盛況らしい。もっとも当方はETC未搭載でしっかり正規料金を取られるのがいまいましいが、生産が追いつかず、品薄状態が続いているETCも、近々無用の長物と化すやもしれず、ざまぁみろと思うのは、所詮負け惜しみ、遠吠えの類に過ぎない。

湾岸道路から館山道に入る。筆者の車に搭載されている5年前のカーナビでは未完成の部分も既に開通済で、1車線とはいえ、なかなか快適なドライブである。確かに海岸沿いを走る心地よさはなくなったが、半島特有のやりきれない渋滞から解放されたメリットの方が大きいだろう。昼食休憩をとって、チェックイン可能の3時ちょうどに宿に到着した。

太陽には、平成元年に今は亡き祖父母のお伴で訪れて以来、丸20年ぶりである。なかなかいい宿だったという記憶があったが、最近リニューアルしたとかで、なかなか小ぎれい。筆者達は6Fに泊まったのだが、部屋の窓に広がる一面の海の景色はやはり、圧巻であった。子供達を遊ばせる海岸にも無論、事欠かない。

夕食はバイキング(夏場のみらしい、前回泊まった時は確か部屋食だった)。値段からもほとんど期待していなかったのだが、これがどうしてどうして、嬉しい誤算であった。天麩羅は揚げたてがふんだんに振る舞われ、肉も焼き立て、刺身、寿司の類はもちろんのこと、マグロのカマまで用意してあったのには驚かされた。筆者が口にした中では、ソバだけが倒れそうなくらいまずかったが、あとはデザートも含めていけた。ちなみに当然朝もバイキング、こちらはまぁありふれた内容だったが、それでも刺身があったのは海の宿ならではだろうか、特にイカの柔らかさは絶品だった。

夕食後は、ジャンケン大会、貝殻のストラップ作りといったイベントも用意され(これも夏休みだけらしいが)、後はお楽しみの風呂・・・まぁこれは、それぞれの好みとなる。千葉で筆者の望む「いい風呂」に巡り合うことは、まず不可能なのだから割り切るしかない。

翌朝、目覚めたら予想もしなかった雨だったのには驚いたが、それも出発時には上がり、この日の目的地は「鴨川シーワールド」。祖母の実家がこちらだったこともあり、子供の頃は何度か訪れたことがあったが、久々である。かつて、この辺のレジャー施設としてシーワールドと張り合う存在だった行川アイランドは既になく、ディズニーランドは別格としても、千葉県の施設としては1人勝ちとは聞いていたが、入口から広がる海、さまざまなアトラクション、夏休みにふさわしい混雑ぶりも納得できた。老若男女、楽しめる施設であろう。

2日間の短い旅ではあったが、千葉の気候、自然、食べ物を十分楽しめた。千葉はいい所、今更ながらそう思わされた旅であったが、1つだけ不快なことがあった。初日の昼食を野島崎灯台近くのある海鮮料理屋で摂った。料理自体は決してまずくはなかった、いやうまかったのだが、子供の食べていた飯か味噌汁のどちらかから、なんと人の差し歯が出てきたのだ。全く信じられないことだが、事実である。知らずに口に運んだ子供が

「これ何?」

と口から出して、それを見せた時、筆者達は正直言葉を失った。すぐさま店の人間を呼んで抗議したが、なんとも誠意の感じられない対応に怒りが増幅する。店側は断固否定するが、要は他の客の食べ残しを流用しているとしか考えられなく、どこの誰ともわからない人間の口から出た物が、幼い子供の口に入ってしまったという事実は大袈裟でなく、背筋が寒くなった。普段は大人しいが、こと子供のことになると人が変わる妻の猛抗議に、しぶしぶ店主(らしき人物)が頭を下げたが、ただにするからもういいでしょ的対応には、怒りを通り越してあきれてしまった。全く食物を扱う資格すら感じさせないこの店の実名を本当ははっきりここで書きたいくらいだが、とりあえずは我慢しておく。ただ、商売とは厳しいものであるということくらいは知っているつもりだが、儲けの為には、なんでもありと言わんばかりのこの店の姿勢。こういう店が生き残ることがないように、我々消費者はかしこくならなければならないと、強く思った出来事であった。

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2009年8月18日 (火)

いよいよ、時来る

遅くなってしまったが、先の地震、そして集中豪雨で被害に合われた方々にお見舞い申し上げ、また不幸にして尊い命を落とされてしまった方に、心からお悔やみ申し上げます。自然の猛威の前に、人間はあまりにも無力であることは、今更改めて言うまでもないことかもしれないが、人間のエゴがその被害をより増してしまっている節もあるだけに、文明の発展とは残念ながら、いいことばかりではない。いろいろと考えさせられる夏である。

長かった前哨戦がようやく終わり、衆院選はようやく公示日を迎えることとなった。先ほど帰宅して、ポストを覗くと、早くも投票所整理券が投函されていた。いよいよ時来る、候補者でもないのに、思わず気合が入ってしまった(笑)。

筆者がここで訴え続けたことがいよいよ実現するのか、否か、それはもはや神のみぞ知ることになる。筆者に出来ることは、自分に与えられた一票を自分の信念に基づいて行使するのみである。しかし、この場において最後の呼びかけをさせていただきたい。みなさん、是非選挙に行きましょう。筆者と思いを同じくする人もいれば、当然全く正反対の考えを抱いている方も多々いらっしゃるはずである。もちろん、私としては自分と同じ考えの人が多数になってくれることを祈っているが、しかしどんな考え方をお持ちの方でも、是非その考え方を共に意思表示してみませんか?どちらの考えが多数を占めるにしても有権者の半分が行くか行かないか程度の投票率じゃ、どちらの結果が出たとしても釈然としない。

政治なんて誰がやったって同じ、そう斜に構えるのも1つの姿勢なのかもしれないが、我々市井の人間が政治に意思表示が出来る唯一の機会が選挙なのではないか。それも今回は我が国の政治の行方を直接左右する第一院の選挙なのである。投票は国民の義務、なんて大上段に構えるつもりはないが、この機を逃す手はないんじゃないのというのが、当方の正直な気持ちなのである。

一般的に投票率の上下は、いわゆる「無党派層」の動向にかかっており、彼らは政治に高い関心を持ちながらも、容易に腰を上げず、またどちらかというと野党寄りと言われている。筆者はかねがねこの「通説」に疑問を持っているのだが、それはともかく、どうも今回、言われている程に選挙は盛り上がらず、投票率がかなり低くなってしまうのではないかという危惧を筆者は抱いている。それがどちらに利するかは問題ではない、低い投票率の選挙で勝った、負けたと言ってもただ虚しいだけ、まして今回の選挙が本当に「政権選択選挙」なのだとしたらである。

政治に、政治家に対する思いは人によって様々なのだろう。しかし、その思いをぶっつける数少ない機会が「国政選挙」だと筆者は思う。もう一度だけ言わせて欲しい、みなさん是非選挙に行きましょう。そして8月30日の夜を「傍観者」ではなく「当事者」として是非迎えてはみませんか?

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2009年8月10日 (月)

いつも、あいつが憎かった

いやぁ、それにしても打てないチームを応援するというのは本当にしんどい。土曜日、対ヤクルト戦を久々にじっくり見たのだが、とにかくくたびれた。やっとこさ取った1点を守ろうと、毎回のようにノーアウトのランナーを背負いながらも、敵の拙攻にも助けられ、グライシンガーは懸命に投げ続けたが、7回に8番打者に打たれ、ついに同点に追いつかれてしまう。もっともこちらの1点も7番が叩き出したのだが。勝ちがなくなっても、グライシンガーは腐らずに投げ、後を継いだ山口もまず、危なげなく2イニングを抑え、決めてくれたのはこのところ神かがった感もある亀井。今日も亀井の一撃で勝ったようで、優勝するにはこういうラッキーボーイ的存在は確かに必要ではある。当面の敵の一つであるヤクルトを3タテしたのも、めでたいことなのだが、こう勝ち味が遅いとまだまだ先は長いだけに厳しい。戦いぶりの安定感では明らかに中日の方が上回っていることは認めざるを得ない今、打線のつながりをどう構築して、リードを保って行けるか、原監督の手腕が問われる時である。

筆者が見た頃のV9エース堀内恒夫はもう現役最晩年だった。なんともとぼけたメガネをかけた顔で、たまに敗戦処理に現れては大歓声を浴びていた。が、1983年の6月、場所は阪神ファン一色の甲子園、ローテーションの谷間で久々の先発マウンドに上った堀内は6回途中まで、タイガース打線を翻弄、結果として現役最後の勝利を上げる。そのピッチングはまさに芸術的、一世を風靡した大投手がまさに最後の力を振り絞っての置き土産と見えた。それだけではない、それから4か月後、地元後楽園で設定された引退試合で彼は回って来た打席でなんとホームランを放つ。千両役者は最後までやることが違っていた。

堀内の後にエースの座に就いた小林繁は理不尽としか言い様のない理由でジャイアンツを放出され、その後は、怨念むき出しで立ち向かってくる明確な敵になっていた。その後のエース新浦壽夫は、監督やファンの期待が自分から他の若い投手に移ったことですっかりやる気を失い、やがて日本球界を去って行った。数年後、再びその姿を現した彼は、ジャイアンツ時代とは全く別人の技巧派投手となって、ジャイアンツの前にたびたび立ちふさがることになる。そしてジャイアンツのエースは「あの男」の時代になっていた。そう、小林をチームから追い、新浦の輝きを奪ったあの男の・・・。

江川卓、高校時代から「怪物」の名を欲しいままにした彼は常に、世間の注目を浴びる存在だった。そしてそれは、あの「事件」でピークに達する。多くの悪意に満ちた視線と、どれだけやれるのかという好奇の視線の中、ジャイアンツに入団した江川はやはり本物だった。筆者が実際に見た中で、最高の投手は誰かと聞かれれば、文句なく江川卓だと答える。トルネードの野茂英雄が豪快なフォームで日米を股にかけてどんなに投げまくっても、平成の大エース斎藤雅樹が完投を重ねても、松坂大輔のうなるような快速球に何度息を呑んでも、しかしその思いは変わらない。それは決して筆者の幼い頃の記憶が美化されているからだけではないはずである。

特に1980年後半戦から82年前半戦にかけての2年間の江川はほぼ無敵だった。見ていて負けるということがほとんど考えられなかった。9回、完投直前になるとストレートがいよいようなりを上げ出して、三振の山を築く投手。5回を投げれば「試合を作った」と意気揚々と引き上げ、あとはリリーフに任せてベンチで観戦しているだけの昨今の先発投手を見慣れていると、やはり「怪物」としか言い様がない。その上、その江川の球種はストレートとカーブ、たった2つしかなかったのである。

そんな怪物に牙を剥き続けた男、それが「雑草」西本聖だった。年齢は江川の1つ下、しかし入団は江川より5年早い。ドラフト外入団といういわばおまけのような存在から、文字通り這い上がってローテーション投手の座をつかみつつあったその時、割り込むように現れた怪物に、雑草は臆することなく挑みかかった。己の存在感の証明の為に。

西本と言えば思い出す試合が2つある。1つは81年、直前に夫人が事故で重傷を負うという大アクシデントに見舞われながら、初の開幕投手を見事に完投勝利で飾った試合。もう1つはその7年後のやはり開幕戦、鳴り物入りでパリーグから移籍して来た落合博満に対して、西本はなんと全打席、全球シュートで勝負を挑んで見せた。辛うじて1安打はしたものの、すっかり調子を狂わされた落合はその年は結局、期待されたほどの成績を上げられなかった。江川以外のセの投手なんて目じゃない、そううそぶいていた落合の鼻っ柱を折った西本の気迫は忘れられない。

そう、江川がストレートなら西本はシュートである。江川は言う。

「僕が現役時代、他の投手の球ですごいと思ったのはただ1つ、西本のシュートだけだった。」

性格も、球歴も、そして投球スタイルもなにからなにまで正反対だった2人。自分に対するライバル心を隠そうともせず、むき出しに挑みかかってくる西本に対し、江川は我関せず、軽くあしらっていたのかと筆者はずっと思って来た。しかし実際はとんでもなかった。

「西本、今日は打たれてくれ。明日は俺が抑える、そうすれば俺の評価が上がる。」

江川はある時期からずっと、そう思いながら、マウンドの西本を見ていたと言う。西本の言葉はもっと激しい。

「打たれろ、負けろ。」

阪急ブレーブスの黄金時代を支えた山田久志は事あるごとにこう言う。

「今は右のエースに左のエース、リリーフエースに中継ぎエースまでいる。冗談じゃない、エースなんてそんな安売りするもんじゃない。『エース』と呼ばれる存在はチームにただ1人、それが本当のエースなんだ。」

そして、それと同じ意味の言葉を江川も西本も異口同音に吐いた。

「エースは1人。」

当時のエースは江川だった、それを西本も認めざるを得なかった。だからこそ、西本は江川を必死に引きずり落としにかかり、江川もまたそんな西本を懸命に蹴落とそうとした。たった1つのものを死に物狂いで奪い合う、本当の「ライバル」とはそういうものなのだろう。そこには一片の友情もなく、ただ憎しみしか生まれないのかもしれない。

絶対的なエースは江川、しかしここ一番で頼りになるのは実は西本、当時筆者だけでなく、かなりのジャイアンツファンはそう思っていたのではないか。1982年、ジャイアンツは1勝の差で優勝を逃すのだが、ここで勝てば優勝確実という大洋(現横浜)との最終戦に先発した江川は大洋の一発攻勢に沈み、ライバル中日に息を吹き返させてしまった。その2年後、球団創立50周年の年にVを義務づけられて開幕を迎えたジャイアンツはエース江川をオープニングピッチャーに送り込んだが、大乱調。解説の青田昇が

「よりによってジャイアンツは1番調子の悪いのを開幕投手にしたんじゃないの。」

と呆れ果てていたのを思い出す。どちらのときも西本が絶好調なのにも関わらず、監督の

「エースは江川。」

というこだわりが裏目に出てしまったのである。そして、それが極まったのが83年、西武との日本シリーズだった。このシリーズのことは、前にも少し触れたことがある。思い出したくもない、本当に悪夢のようなシリーズだった。シリーズ直前にケガをしたこともあって、江川は出ると打たれの無様なピッチング、一方の西本はそんな江川の尻拭いをするかのように、キッチリ完投勝利でチームを救う。その2年前のポンハムとのシリーズ同様、頼りになるのは西本、みんなにそう思わせる内容だった。そしてあの運命の第6戦がやってくる。

日本一まで後1勝と迫っていたジャイアンツは土壇場の9回、現横浜投手コーチの杉本正から中畑清が起死回生の逆転三塁打を放ち、いよいよクライマックスを迎えた。そして9回、最後を締めるべくマウンドに上がったのは2日前に完投した西本だった。筆者は当然のことと受け止めた、たぶん多くのジャイアンツファンも同じ気持ちだっただろう、今までの投球内容から見て、江川のリリーフなど考えられなかったと言ってもいい。

あのもどかしさ、いまいましさはあれから26年も経つというのに、まざまざと思い出せる。ワンアウトを取っていけると思ったのもつかの間、以降の西武の打者の放った打球はボテボテの当たりながら、ことごとく我々ジャイアンツファンを嘲笑うかのように、三遊間を抜けて行く。そして同点に追いつかれた当たりもショート鈴木康友が追いつきながらもどこにも投げられない。あの回、西本が打たれた当たりでいわゆる「いい当たり」は1つもなかった。なのに同点、そして延長10回、代わって出て来た江川は今までの流れそのままの生彩のないピッチングでサヨナラ負け。西本で勝てなかったのなら仕方がない、そう思うしかなかった。

ところが内情は全く違っていたらしい。あの勝ち越した9回、当初行くのは江川の予定だった。確かに投球練習をしていたのはずっと江川1人だった。が、勝ち越したと同時に西本がブルペンに走る、ベンチに迷いが生じたのだ。それでも江川は行く気満々だった、エースのプライドに賭けて、ここで行くのは自分しかいない、そう信じていた。

「あの時は(肉離れを起こしていた足が)切れてもいいからリリーフ行こうと思っていた。自分しかいないと思ってた。僕は、結構この試合、野球人生選手生命を賭けていた。」

自らクールな性格と認める江川が、この時の心境をこう言い切っている。ところが・・・藤田元司監督が告げたリリーフは「西本」だった。このシリーズでの両者の調子、昨年終盤の痛い負け、藤田監督の決断はわかる気がする。だが問題は、本来なら意気に感じてマウンドに駈け上がらなければならない当の西本を含むチームのほぼ全員が、この起用を想定していなかったことだった。

西本は大決戦となるはずの第7戦の先発、みんながそう思っていた。しかし、第6戦を、あと1イニングを抑えれば、第7戦を戦うまでもなく、栄冠はこの手につかむことができる。藤田監督の方針変更を責めることはできないと思う。だが、この決断は西本を動揺させ、江川の心を折ってしまった。10回の江川は単に不調を引きずっていただけでなく、もう抜け殻になってしまっていたのだ。

続く7戦を思い出すのはもっとつらい。中1日で先発のマウンドに立った西本は、2点のリードを懸命に守り抜こうと渾身の投球を続けたが、7回テリーに決め球のシュートを左中間に運ばれ、走者一掃の逆転タイムリーを浴びる。その前、ノーアウト1塁から投手ゴロを弾いてゲッツー一転無死一、二塁になってしまったのが、すべてだったのかもしれない。守備の名手とうたわれ、実際ダイヤモンドグラブ賞を何度も受賞している彼が、おあつらえ向きのゲッツーゴロをつかみ損ねて、自らピンチを広げ、そして打たれた。疲れもあっただろう、しかしこんなことを言っては失礼かもしれないが、そこには、西本といい、中畑といい、真のヒーロー、真のナンバーワンになれない男の運命が感じられてならない。

「僕はいつもNO2、NO1になったことがない。でもあそこで勝ってれば(江川に)勝ったと思えた試合だったかもしれない。」

西本聖悔恨の述懐であり

「俺なら勝てたと思ってる、今でも。あの状況で行ったら、俺は抑えたという自信は今でも持っている。」

一方の江川卓の譲れないプライドがそこにあった。

2人のライバル関係はそれから4年後、江川の突然の引退で、唐突に終わりを迎える。「空白の1日」騒動の時、当時既に23歳だった江川に対して

「大学を卒業したいい大人が、こんなことをしてもいいのかという判断力もないのか。」

という声があった。しかし、子供心に、それは違うと思った。ジャイアンツにどうしても入りたく、その方法があるから任せておけと言われれば、お願いしますと言うだろう。入団の経緯で江川を責めるのは酷だと、筆者は今でも思っている。だが、引退の時に彼は言った。

「選手にとって、唯一認められている権利は辞める権利。」

FAなんて夢のまた夢だった時代、確かにそうだったかもしれない。まして腕の折れるまで投げるなんていうのは彼の思考の中に全くなかっただろう。しかし、ジャイアンツがまだ、君を必要としていると言っている以上、彼にはそれに応える義務があったはずだ。事の善悪はともかく、あそこまでのことをして、また犠牲を払ってまでも、ジャイアンツは江川卓を迎え入れてくれたのである。

なのに、江川はそんなチームに後ろ足で砂をかけて去って行った、それも嘘までついて。その心根の醜さがやりきれない。以来、筆者はジャイアンツファンとして、江川という人物を許していない。可能性はかなり低くなったとは思うが、尚もくすぶり続ける彼の監督就任説。あんな人物を三顧の礼で、監督に迎え入れた時、筆者は間違いなく愛するジャイアンツと決別するつもりでいる。そんな日が、絶対に来ないことを祈るしかない。

江川の去ったジャイアンツの中で、西本は急速に居場所を失い、中日更にはオリックスと渡り歩き、最後の死に場所を求めて、恩師長嶋茂雄を頼って、94年再びジャイアンツのユニフォームを着る。しかし、その力の衰えは覆い隠すべくもなく、そのオフ引退する。なんとか引退の花道をと、長嶋はタイミングを計り続けていたが、チームの優勝決定が最終戦にまでもつれ込み、その余裕がなくなってしまったのは不運であった。結局西本は、自らがプロ野球人としての生まれ故郷と語る旧ジャイアンツ多摩川グラウンドで、有志が催した引退セレモニーでひっそりと去って行った。新装なった東京ドームのオープン戦で、華々しい引退試合を挙行してもらった江川のそれとは、やはりあまりにも対照的であった。

そして今年の6月、テレビ番組の企画で江川と西本は初めて、腹を割って話をした。去る7月20日にTBS系列で放映された「ライバル伝説 光と影」という番組内のことである。こういうものはタイムリーに取り上げるべきものなのだろうが、とにかく面白い番組だった、本当に久しぶりにいい番組をみせてもらった気がした。

対談の中で、西本に問われた江川ははっきり言った。

「(西本は)僕にとって、完全な唯一のライバル。」

有り余る才能に恵まれ、他人から嫉妬されることがあっても、決して嫉妬することがなかった江川卓の野球人生の中でたった一人現れたライバル、それが西本聖だった。江川がそれを認めたのは恐らく初めてだったろう。それに対して西本は

「素直に嬉しい。」

と答えていたのも印象的だ。そして江川の存在があればこそ、自分を高めることができたのだから本当に感謝していると言う西本に江川はこう答えた。

「それはお互い様だよ。お前がいなかったら、俺もっと手抜いてたもん。」

こういうウイットに富んだ江川のセリフはさすがである。

江川が西本を意識し始めたのは沢村賞を西本に奪われてからのことだそうだ。長くなってしまったから、この経緯にはもう触れないが、あれもひどい話だった。沢村賞の選考方法が現在のように、受賞経験者を中心とした選考委員会の手に委ねられることになったキッカケになったはずである。

以来、2人は憎悪とそれとは裏腹のなんとも形容のし難い敬愛の情をお互いに抱いたまま、競い合い続けてきた。そこにはきれいごとでは決して済まないどろどろした怨念と、しかし、全力を賭けて戦い抜いた者同士のみが共有できる奇妙な友情が感じられて感動させられた。

番組の最後に映った1枚の写真、2人がじゃれあう姿を写したあの写真はいつ、どのような場面で撮られたのだろう。本当に興味をそそられる。そう言えば、それまでのインタビューでは一貫して「江川さん」と呼びながら、実際に会うと西本は江川のことを「卓ちゃん」と呼んでいた。そこにも複雑微妙な2人の関係が息づいているようにも思える。スポーツって、野球っていいなぁ、そんなことを改めて感じさせてくれたひとときであった。

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2009年8月 6日 (木)

おいおい、ホントにこんなんで、だいじょぶなのかい?

首相在任中に倒れ、結局そのまま還らぬ人となった小渕恵三はこんな言葉を残している。

「なんたって龍ちゃんは4日で政権を失ったからな。」

龍ちゃんとは、小渕の首相としての前任者で、やはり先年、故人となった橋本龍太郎のこと。小渕と橋本は同年生まれで衆院初当選も同期、佐藤栄作派から田中角栄派ー竹下登派とずっと同じ道を歩み続けて来た。

1996年、初めて行われた小選挙区比例代表並立制での総選挙で、野党陣営のまぬけな選挙戦略にも助けられ、堅調に勝利を収めた橋本龍太郎内閣は、いよいよ長期政権への道を歩み始めたかに見えた。直後に召集される特別国会では首班指名に先立ち、院の正副議長が選出されるのだが、ここで土井たか子の後任衆院議長に小渕が擬せられ、小渕本人もその気になったとされる。既に党幹事長、副総裁を務め、格付けこそ首相と同格だが、実態は一丁上がりの名誉職である議長の座に就くことは、もはや過去の政治家という烙印を押されるに等しい。同派閥の橋本の長期政権の後を自分が継ぐことは、かなりむずかしいと踏んだ小渕の決断に待ったをかけたのは他ならぬ橋本だった。

「恵ちゃん、あまり短気は起こさん方がいい。もし俺に何かあったら、一体誰が後を継ぐんだい。」

こうして小渕は土壇場で踏みとどまり、議長の椅子は山中貞則元通産相も辞退し、伊藤宗一郎元科技庁長官に回ることになったのだが、それから2年後、参院選で橋本自民党は敗退、橋本は退陣を余儀なくされ、後任に収まったのは結局、小渕だった。橋本の「慧眼」を称えるべきなのかはよくわからないが、選挙前は楽勝を伝えられた自民党が一転、時の首相が辞任に追い込まれる程の大敗を喫したのは、土壇場での橋本首相や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走であった。小渕が「4日」と言ったのは、そのくらい劇的な形勢逆転だったということなのである。

そして今、あの共産党から

「この総選挙後には、民主党を中心とした政権が誕生する可能性が極めて高い。」

という御宣託が出るなど、世の流れは政権交代、鳩山民主党政権誕生に向けてとうとうと流れているやに見える。夕刊紙、週刊誌の類はもともとセンセーショナルな報道を売りにしている輩ではあるが、連日自民党の苦戦、獲得予想議席数では民主が300超なんて記事が乱舞している。かくゆう筆者も、もし解散当日の7月21日に投開票があれば、4年前の郵政選挙とは全く逆の目が出るくらいの結果になったと思っているし、あとは40日の間に、民主がいかに取りこぼしを少なくするか、逆に言えば自民がどれだけ巻き返せるかの勝負に過ぎないとは見ている。しかし、しかしなのである・・・。

解散から随分時が経ったように思うのだが、現実には選挙公示日までまだ2週間もあるのである。あまりに長過ぎる前哨戦、何度も書いたが、ここに自民党はすべてを賭けている。もはや逆転の秘策などはあろうはずはなく、後はひたすらに民主党の失策を、鳩山が10年前に橋龍が演じた迷走の二の舞を踏んでくれることを祈り続けているのである。

それにしても、民主主義を標榜しながらも、野党にここまで高いハードルを用意する国家はたぶんまれだろう。ある外国人学者の言葉を借りれば

「完全に準備の出来た野党など、存在し得ない。」

というのが当たり前のはずなのに、政権を失うまいと必死の与党はまだしも、マスコミひいては国民までもが、完璧な政権担当能力と実施する政策の開示を厳しく野党に求めるというのは、はっきり言ってナンセンスの極みである。これまで懸命に政権交代から逃げ続けて来た我が国民、そしてお上に弱いとされる我が国民性の面目躍如としか思えない。

誤解を恐れずに言えば、野党のマニュフェストなど所詮は絵に描いた餅に過ぎない。現実を知らず、また知りえないのが野党なのである。夢みたいなことを語るのは、いわば野党の「特権」であり、また間違ったことを言っても、すべての真実を把握し得ないのだから、仕方ないのである。開き直りと言われても、それが本当のところであろう。

問題は、にも関わらずそういう風潮に圧され、民主党があたふたと浮足立っていることだ。もともとカッコよく政権交代をしたいという見栄の強すぎる政党ではあったが、そんな「ええかっこしい」精神の発揮ならまだしも、ボロを出すまいと、あちらで批判の声が上がれば、慌てふためき、こちらで火の手が上がれば、すわとばかりに消しに飛んでいく姿はあまりに情けない。だいたい、大仰に記者会見で発表しておきながら、舌の根も乾かぬうちに代表自らが

「あれは正式なマニュフェストではない。」

などとのたまうというのは、どういう神経をしているのだろう。麻生のことを随分ぶれた、ぶれたとバカにしていたが、これではとても人のことを言えた義理ではないだろう。

鳩山由紀夫という人は、もともと口が軽く、失言も多い政治家である。前回、彼が代表だった時の2000年の総選挙の時も随分やらかしてくれたが、その時はたまたま相手が、その道なら絶対に負けられないという自負をお持ちだった(?)森喜朗だったことでまだ救われた面があった。今回の相手も、その点やはり「期待」できる人ではあるが、もし付き合ってくれないとすると、困ったことになりかねない。

民主党は根本的に勘違いをしている。民主党はあくまで野党、つまりは「チャレンジャー」なのである。今のまま、なんとか逃げ切って政権にありつこうなんていう姿勢はおこがましすぎる。すべてに大風呂敷を広げ、八方美人と化すことは、最終的に自分達の首を絞めるだけである。だいたい、なんだか知らないが偉そうにいろいろと各党のマニュフェストを論評している地方首長の連中なんていうのは何様のつもりなのだろう。要はあいつらの言ってることはもっと金をよこせと言っているだけのこと、都市部の金をいただく立場なのに、あんなに威張っているのは何故なのか、全く理解に苦しむ。そんな連中の言に右往左往している有様はあまりに見苦しい。だまっとれ、ガタガタ抜かすなら俺達が政権獲っても一銭もやらんぞと一喝してやればいい。もっともそんなことをホントに言ったら大問題になるだろうけどね(笑)。

まぁそれはともかく、野党のマニフェスト、それは本来

「これだけは絶対やります。」

ということを訴えるべきはずなのである。今回で言えば、政治を官僚主導から政治主導に切り替えるというこの一点で本来なら十分かもしれない。だが、それ以上に今回は

「ストップザ自民党、自公政権。」

こそが訴えるべき最大の公約である。長妻昭は言った。

「我々が政権を獲ったら、各省庁の金庫をすべてひっくり返して、すべて精査したい。是非それをやらせて欲しい。」

ここがすべての出発点である。この国を財政的、ひいては道徳的に立て直す為の第一歩、それは今現実に、国民の税金がどのように使われているか、そしてその結果、我が国の財政は本当にどういう状況になっているかを白日の下にさらすことである。それは現政権が続く限り、永遠に不可能なことである。もちろん、政権交代しても不可能なのかもしれないが、しかし可能性は今より確実に出てくる。そして、使い方を改めるべきところは改め、そしてそれでも足りない時には、やむを得ず増税する。その道筋をつけるのは、今の手あかのつき切った自民党政権ではこれまた絶対に不可能であろう。

そしてもう1つ、それは

「失政をした内閣・政党は政権を失う。」

という当たり前のシステムをなんとしても日本の政治に根付かせる、今回はその最大のチャンスなのである。

民主党の責任は重大なのである。大袈裟でなく、日本のこれからの命運がかかっているのが今回の選挙なのである。にも関わらず、もし今回、この期に及んで、政権交代を逸する、もしくは「政界再編」などという破廉恥な陰謀を企む輩の跋扈を許すような結末を許した時には、民主党の責任は万死に値する。増税も、政界再編もいずれは必要だろう、しかし今は絶対に順番が違う、まず為すべきは54年もの長きに渡った自民党政権の総括であり、それなしに我が国は次のステップに進むことは絶対に出来ない。それをうやむやにして「先に進む」とすれば、すべてがうやむやとなり、誰も責任をとらず、また問われない「無責任体制」の維持であり、その先に待っているのはもはや・・・。

来る8月30日は日本という国の命運を決する日、筆者はそう公言して憚らない。

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2009年8月 4日 (火)

さぁ、前を向いて行こうぜ!

体調不良の為、少しご無沙汰をしてしまった。夏風邪というのは、なかなか抜けないものである。

ジャイアンツの足取りがすっかりおぼつかなくなってしまった。確か、一時は2位に6.5ゲームくらい離したと思うが、今や1.5ゲーム差まで詰まり、V3に暗雲などという記事も見かけるようになった。7月は結局、貯金0。今月に入っても1勝1敗、なんとも冴えない試合が続いている。原因としては、昨年から、今年前半に駆けて、チームを引っ張り続け、また活性化して来た若い投打の2人、坂本勇人と越智大祐がすっかりくたびれてしまったのが、最大の要因だとは思うが、無論それだけではない。

本当は、オールスター期間中に、前半戦の総括のような記事を書こうと思っていたのだが、その時のタイトルは『得点力なきところに覇権なし』とするつもりだった。今年のジャイアンツの戦いぶりを振り返ってみると、過酷なまでの登板に耐えてきた中継ぎ、抑えの面々の活躍もあり、投手陣はそこそこ踏ん張っていると思うが、一方の打撃陣に昨年特に後半のような迫力がなく、結局は競り負けるという試合が、シーズンが深まるにつれて増えてきた印象がある。

原監督自身が、開幕前に「今年は野手陣についてはむしろパワーダウン」と語っていたように、二岡、清水がチームを去り、高橋由伸は消息不明。李はもはや燃え尽きたような哀れな打撃を繰り返し、阿部も往時の迫力がない。昨年、やっといいリードオフマンになってくれたと喜んでいたら、鈴木尚広はもうその輝きを失ってしまった。亀井は頑張っているとは思うが、5番打者の打撃力を身に付けたとはまだ思えない。昨年の破壊力には及ばないが、ガッツとラミレスはそれなりの存在感を保っているから、要はその前後を打つ打者連が奮起してくれないことには、なかなか点は入らない。坂本と松本、この2人の飛躍は見事だが、彼らに続く若手も現状、残念ながら見当たらない。

先ほど消息不明と書いた高橋由が一塁手としての復帰を目指すという記事が出た。現状の打撃陣の低迷を見れば、由伸の存在はまさに喉から手が出るほどだが、まぁ期待薄だと思った方がいい。李もアルフォンゾもこれまで、ファームからの救世主もまず、望みなしだとすれば、いる人間でやっていくしかない。谷を固定で使うことを是非提案したい。

投手陣は開幕前はクローザーとも期待されたM中村の調子が一向に上がってこないのが最大の誤算。更に調整の失敗から西村健太朗も姿を消し、クルーンもケガで2度戦線を離脱し、結局越智、山口、豊田の3人に負担が行き、豊田はとうとういなくなってしまった。無論、頼りない先発陣も責任は免れず、ゴンザレスを獲っていなかったら、どうなっていたのだろうと思うとゾッとする。

不安要素をこれでもかと書き並べてしまったが、しかしそれでもまだ首位なのである。中日の追い上げ、勝ちっぷりは強烈だが、それでもまだジャイアンツには追いつけないのである。1年、ずっとチームが好調に勝ち続けるということはない。今がジャイアンツにとって踏ん張りどころなのである。一昨年も昨年も、もはやこれまでというところから、這い上がって優勝をもぎとった。それに引き換え、今年は堂々を首位を走っているのである。スタート時の快調さを失って、焦る気持ちはあるだろうか、チャンピオンとして、ここはどっしりと足を地につけて、戦うべきである。自分達の力を信じて、まっすぐ前を向いてつき進むのみである、明日からまた、いい戦いを期待したい。

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