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2009年9月

2009年9月27日 (日)

土井正三さんの死を悼む

1974年10月14日、この日は「ミスタープロ野球」と呼ばれ、ジャイアンツ入団以来、球界の太陽であり続けた長嶋茂雄の現役最後の日であった。そしてそれは同時に「名選手、名監督に非ず」の格言を覆し、前人未到のV9を達成した川上哲治監督が、長年着慣れたジャイアンツのユニフォームと決別する日でもあった。

ダブルヘッダーで行われたこの日の試合、正真正銘ミスターの最終試合そして自らの監督生活最後となる第2試合で、川上は以下のスターティングメンバーを組んだ。

①(中)柴田勲②(左)高田繁③(一)王貞治④(三)長嶋茂雄⑤(右)末次利光⑥(遊)黒江透修⑦(二)土井正三⑧(捕)森昌彦⑨(投)高橋善正 (一部のちに改名している人もいるが、名前はいずれも当時のもの)

エース堀内恒夫が第一試合で先発してしまったのは画竜点睛を欠いてしまい、また9年の間には、当然選手の入れ替わりもあったが、しかしこれが紛れもない「V9戦士」達。川上は長嶋送別の花道を、そして自らの最終試合を飾るべく、苦楽を共にした彼らをスタメンに並べたのである。

それから35年、誇り高きV9戦士の1人、土井正三さんが逝ってしまった。享年67はあまりに早過ぎる最期だった。

追悼コメントに共通するのは「とにかく野球を、ジャイアンツを愛していた人」。川上勇退と共に退いた長嶋、森、黒江の現役時代は知らないが、他の5人のブレーは見たことがある。試合前の事故で視力が低下した末次が引退を余儀なくされたのが77年、そして翌年に土井さんも現役から引退した。その年の土井さんは規定打席にこそ足りなかったが、自身のキャリアの中で3番目となる打率を残し、ダイヤモンドグラブ賞まで獲得した。当然引退の「い」の字も頭になかった土井さんを強引に口説いたのが立大の先輩でもある長嶋監督。曰く

「後進に道を譲り、育てて欲しい。」

土井さんと二遊間コンビを組み、その後内野守備コーチをしていた黒江が、球団との折り合いが悪く、解任される事態が起こっていた。その後任にと長嶋が白羽の矢を立てたのが土井さんだったのだ。全く釈然としなかった土井さんが結局、しぶしぶながらもそれを受け入れたのは、超自己中男長嶋に逆らっても無駄だと諦めたのと、やはりジャイアンツを思えばこそであった。

2年コーチを務めて、長嶋辞任と共に退団した土井さんは、その後王監督の下でもコーチに就任、そして91~93年にかけて上田利治の後をうけて、オリックス・ブルーウェーヴの監督を務める。

3年連続3位とAクラスを死守しながらも、土井さんのキャリアの「汚点」とされるこの3年間。厳しい指導、采配で選手からほぼ総スカンを食っただけでなく、あの天下の大打者イチローを見出せなかったという「眼力のなさ」が、世間の嘲笑を買うことになってしまったのだ。これについては諸説あり、訃報にあたって、またいろいろな話が流れているが、土井さん本人は最後まで、自分のやり方に自信と信念を持っていたことだけは書いておきたい。

その後、長嶋に呼び戻される形で三度、ジャイアンツのユニフォームに袖を通したのが96年。3年務め、本人は尚も意欲十分だったが、長嶋に「若返り」を通告されて、退任を余儀なくされた。若返りと称して、長嶋に振り回されたユニフォーム生活との決別であった。

監督としては評判のよろしくない土井さんだったが、コーチとしての評価は高い。そして選手としても星野仙一か江夏豊のどちらかだったと思うのだが

「もし乱闘でもあって、一発ぶん殴ってやれるのなら土井やね。」

と言われたくらい、相手から嫌がられた選手だった。

そして何よりジャイアンツが大好きだった。オリックスの監督時代、二言目には「ジャイアンツでは」とやり、これも評判を落とす大きな要因になったらしい。これが土井さんの野球人としての限界だったのかもしれないが、それでも自らの野球人としてのバックポーンとなったジャイアンツそしてV9野球というものに、誰よりも誇りを持ち続けた人だった。

2年前、病魔にむしばまれていた身体を引きずるように、東京ドームに姿を現した時、土井さんは既に余命数ヶ月と宣言されていたという。しかし、それから土井さんは懸命に戦った。今月に入り、土井危うしの報に、川上以下ON、柴田、高田、吉田孝司らかつての戦友達が続々と土井さんを見舞った。そして、後輩達が自分達以来の3連覇という偉業を達成したのを見届けたのち、旅立って行った。心からご冥福をお祈りしたい、合掌。

3連覇を成し遂げたとは言え、今のジャイアンツは原監督復帰以来正二塁手不在の状態が続いている。千葉茂ー土井ー篠塚和典ー仁志敏久と続いた名手の系譜は途絶えたままだ。キムタクの頑張りには、敬意を表するが、脇谷、寺内、中井、藤村といった中堅、若手に奮起を期待し、早く冥府の土井さんを安心させて欲しいと思う。

もう1つ、今朝のスポーツ主要4紙の中で、土井さんの訃報をトップで扱わなかったのは報知だけだった。特ダネが入り、最終版で差し替えたようだが、これが功労者に対する読売グループのはなむけなのかと思うと、なんとも言えない憤りと寂しさを感じないわけにはいかなかった。

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2009年9月25日 (金)

掴み獲った栄光

気になって調べてみた。現在のジャイアンツの最古参選手、つまりもっとも長くジャイアンツに在籍している現役選手は誰なのだろう?と。答えは97年D4位入団鈴木尚広、であった。その後翌98年D1位入団の高橋由伸、99年D3位入団の加藤健、00年D1位高橋尚成、01年D1位阿部慎之助と続き、長嶋茂雄元監督下のジャイアンツに入団した選手はこの5人しかいなくなってしまっていた。

長嶋が2度目の監督に就任したのがもう16年前の話であり、退任してからも8年が過ぎた。古い話になってしまったと言えなくもないが、しかし長嶋復帰初年度のD1位はあの松井秀喜なのだから、もっと長嶋時代の生き残りがいても不思議ではないはずである。

ちなみにセの他球団を見渡すと、中日には84年D5位山本昌なんてとんでもない「長老」がいるが、他にも今年限りで引退とも言われる立浪和義が88年D1位、90年D2位の井上一樹と来て、その後少し飛んで96年D1位荒木雅博、97年D2位森野雅彦と続く。ついでに阪神は92年D4位の桧山進次郎が最古参、先頃引退試合を行った田中秀太が95年D3位で続き、後は97年入団の今岡誠と関本賢太郎、98年移籍の矢野輝弘となる。在籍10年以上の選手数は中日10阪神7ヤクルト9広島12横浜5に対してジャイアンツは4人と最小である。

原辰徳監督復帰初年度となった2006年、素晴らしいスタートダッシュを決めながらも交流戦に入るやいなや、今年のスワローズを彷彿とするような大失速を演じたことはまだ記憶に新しい。

「こんな弱いチームで野球をやったことはない。」

連日不甲斐ない戦いぶりを続けるナインを目の当たりにして、原は当時、日記にこう記したという。確かに、主力にケガ人が続出し、まともな戦いが出来ない時期もあった。しかし、原がなによりもショックだったのは、そのケガ人達がようやく揃った9月、さぁ最後の反攻と意気込んだ途端にチームはまたも失速、とうとうAクラスにすら残れなかったことであった。一方そんなジャイアンツを尻目に、着々と勝ち進んで来た中日は、ライバル阪神も突き放し、優勝へのマジックを1として、意気揚々と東京ドームに乗り込んできた。

目の前の胴上げだけはゴメン、とばかりに最後の力を振り絞って中日に立ちはだかったジャイアンツであったが、延長10回、当時ストッパーを務めていた高橋尚が、敵の4番タイロン・ウッズに決勝満塁本塁打を浴びて、力尽きた。宙に舞うかつてのチームメイト落合博満の姿を無念の思いで眺めながら、原はチームの再建を誓った。

「上手い選手はいらない、強い選手が欲しいんだ。」

以来、事ある毎に原はこの言葉を口にするようになる。長嶋茂雄監督下でかき集められ、主力となっていた選手達の多くが見かけ倒しに過ぎないことを痛感した原は大胆なチーム改革に打って出ることを決意する。

自らのチーム復帰と共に招聘した尾花高夫投手総合コーチの指導の下、ここ数年崩壊としか言い様のない惨状を示していた投手陣は、内海哲也、西村健太朗といった若手の台頭もあり、少しずつ立ち直りの兆しを見せ始めていた。がチームのお目付け役と期待した近藤昭仁ヘッドコーチが、ジェネレーションギャップもあって選手はおろか、コーチ陣からも浮き上がってしまい、結局機能せず、野手陣の整備が進まなかった反省から、伊原春樹元オリックス監督を当初は野手総合コーチとして、そして健康問題を理由に近藤が勇退する形になると、そのまま後任に昇格させ、以来原の片腕として、チームの改革に手腕を発揮している。昨日の優勝インタビューで原は、WBCで開幕前の1番大事な時期にチームをは離れなければならなかった不安を率直に述べていたが、大過なく、留守を預かった伊原、尾花両コーチ以下のスタッフの手腕は見事であった。

選手も大胆に入れ替えた、長嶋監督時代、いや自らの第1次監督時代の日本一にも貢献してくれた連中でさえ容赦しなかった。結果、今年育成契約を含めてジャイアンツに在籍した78名の選手の内、実に半分強の41名が07年以降の3年間にチームに加わった選手達となったのである。

ぬるま湯につかったひ弱な生え抜きに見切りをつけ、非難を浴びようと大胆に他球団から戦力を補強した。復帰初年度の李、豊田、木村拓らに続いて、07年は小笠原、谷、大道、らを、08年ラミレス、グライシンガー、クルーン、藤田、鶴岡そして今年もゴンザレス、M中村を獲得して、チームの根幹を為すべく配置、その多くが期待に応え、それぞれのあたえられたポジションで力を発揮した。特に小笠原、ラミレスの2人はかつてのONになぞらえる程の存在感を示し、このあと触れる若手育成に、原が大胆に踏み切れたのも、結局はチームの柱としての彼らがあればこそであると言って、全く差し支えないであろう。

安定性のなさを嘆かれるクルーンだが、彼の加入は長年頭痛の種であったストッパー不在を解消したことは間違いなく、グライシンガー、ゴンザレスはローテーションを守り続けた。移籍初年度以外はレギュラーとして扱われず、さぞ不満だったろうが、谷はやはり「実力者」というべき選手であった。木村や古城、鶴岡のようにバイプレーヤーとして、きっちり仕事をする姿は若い選手のよいお手本になったに違いない。

こういう他球団からやって来たツワモノ達を手本に、原の抜擢を受けた若手が芽を出し始めた。坂本勇人を筆頭に、越智、山口、松本、亀井、東野、木村正太・・・中井大介も終盤結果を出し始めたし、昨日ペナントを持っての球場内一周時に、トロフィーを持っていたのは大田泰示だった。この男に次代を担わせる、原のそんな思いが感じられた。

かつての主力達の多くがチームを去り、残った数少ない1人である高橋由は第一線から遠ざかり、高橋尚は原の信頼を失いつつあるように見え、シーズン後のFA移籍もささやかれる。キャプテン阿部を唯一の例外として、今までと全く違った力が、新たなジャイアンツの伝統と力を創り出そうとしている、そんな息吹と頼もしさを感じさせてくれた今年1年間の戦いぶりであった。

今年のペナントは数字から見ても、完勝であった。が原監督自らが言っていたようにまだ、戦いは全く終わっていない。

「これから本当の戦いが始まる。」

昨日の試合終了後、中日の落合監督はそううそぶいていたそうだ。いや、負け惜しみと言うべきかもしれない。3年前に強さを見せつけてやったはずの相手にお返しされ、あれほど蔑んでいたCSを「本番」と言わざるを得なくなってしまったのだ。ペナントは完敗、しかし2年前の夢よもう一度、落合としてはそこに拠り所を見出すしか、今はない。

だからこそ、そんな「邪な」考えをまず粉砕することはジャイアンツに与えられた「最低の義務」である。WBCに背を向け、自分達のことだけを考えて、おいしい思いをしようという輩がペナントを制するという暴挙はまず阻止した。そして更に、残された淡い希望も敢然と打ち砕くことが、今後の球界の為でもある。今年、WBCで厳しい戦いを演じた選手の多くがペナントに入ってから苦しんだ。その上、そんなチームが栄光のひとかけらでも掴むようでは、名誉の為に苦難の道を選んでくれる選手などいなくなってしまうだろう。

その上で、後一歩で掴むことができなかった「日本一」。これを勝ち取ることこそ、選手や球団関係者、そして我々ファンの最大の願いである。まだまだ道のりは長い、気を引き締めて、戦い続けてほしい。

ジャイアンツと中日の動向ばかり追いかけていて、ふと気付くとなんと楽天がCS争いどころか、優勝も夢じゃないところまで来ているじゃないか!いやぁ、もしポンハムをひっくり返すようなことにでもなれば、これは昨年のジャイアンツに負けず劣らずの快挙になる。こりゃ面白くなって来たゾ!!

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2009年9月24日 (木)

祝!三連覇!!

1990年から94年にかけてリーグ五連覇を果たした西武ライオンズ以来、セントラルリーグということになると、なんとあのV9ジャイアンツ以来のリーグ三連覇なのだそうだ。これは快挙と言うにふさわしいであろう、原辰徳監督以下読売ジャイアンツのコーチ、選手、スタッフ関係者のみなさんに、心から祝福申し上げると共に、一ファンとして本当にありがとうございましたと、心からお礼を申し上げる。

交流戦直後にヤクルトに1.5ゲーム差まで迫られ、8月に入ってからは今度は中日の猛追を受け、1ゲーム差まで詰められたが、まぁ今年は危なげない勝利と言って差し支えないだろう。勝っても勝っても中日を引き離せず、逆に中日も勝っても勝ってもどうしてもジャイアンツに追いつけない状況が続き、もはやどちらが踏んばり切れるかの勝負になったと思っていたが、思いもよらぬ月末の敵地ナゴヤドームでの3タテで一気に突き放し、最後は7連勝でのフィニッシュ、見事であった。

シルバーウィークとやらで、世間は5連休だったそうだが、筆者も終盤2日間は休みをいただき、昨日は子供の友達家族のお誘いを受けて、実に久しぶりに自然の中でのバーベキューなんぞを楽しませてもらい、今日は彼岸の墓参りで実家に寄ったところで、愛するジャイアンツの優勝を目の当たりにできた上に、少々遅い誕生祝いまでしてもらい、いい連休を過ごさせていただいた。今日はまずはお祝いまで、続きはまた改めて。

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2009年9月20日 (日)

理想を追えるか

亀井静香が張り切っている。かつて自民党で派閥の領袖を務め、総裁候補の1人だったはずなのに、いつの間にか党追放の憂き目を見て、以来苦節4年、いや森内閣下での自民党政調会長以来の久々の檜舞台へのカムバックである。菅、岡田なにするものぞ、本来なら鳩山だって格下じゃないか、たぶん内心ではそう息まいているのだろう。郵政民営化見直しの私案を口にした原口総務相にさっそく噛み付き、平成版モラトリアムを提起して波紋を投げ、藤井財務相にたしなめられても、どこ吹く風の鼻息の荒さである。亀井のバイタリティやメッセージの発信能力は鳩山内閣にとって得難いものではあるが、これが閣内不統一や不協和音にまで高まってしまっては「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、元も子もなくなってしまう。今後の鳩山首相の手綱さばきが注目される。

そして、もう1人政権交代に伴って浮上して来たのが、衆院外務委員長に指名された鈴木宗男新党大地代表である。

鈴木の指名については野党である自民、公明両党が鈴木が現在も公判中の刑事被告人であることを理由に「前例がない」と徹底して反対した。「彼が逮捕された時には、全会一致で辞職勧告決議案も可決されている」とも言ったそうだ。それに対して民主、社民の与党側は「有罪が確定していない以上、推定無罪」との論理で押し切り、横路孝弘新衆院議長が、他の常任委員長同様に指名して決着した。

早くも、ついこの間までのスタイルとは攻守逆転した姿が、明らかになったが、1、2審で実刑判決を受けている鈴木は、最高裁でこのまま刑が確定すれば、失職、収監を余儀なくされるのであり、今彼をこのような公職に就けることは、いささか時期尚早の感は否めない。橋本龍太郎が、自民党史上初の総裁選無投票再選を果たし、意気揚々と内閣改造を行い、当時ロッキード事件で有罪判決が確定したばかりの佐藤孝行を入閣させたら、途端に世論の猛反発をくらって人気が急下降したのを、思いだしたが、今のところはあまり厳しい反応は出ていないようではある。

思えば世間、マスコミからの袋叩きの中で逮捕されて以来、鈴木は一貫して「国策捜査」と訴え、無罪を主張して全面的に争い続けている。自分がいかに陥れられていったかを赤裸々につづった彼の著書「汚名」を、筆者は矢野絢也が書いた「黒い手帳」と立て続けに読んでしまい、かなり憂鬱な気分にさせられたが、それはともかく少なくとも鈴木本人は、外務省に裏切られ、人身御供にされたと信じ、2005年に国政に復帰して以降は復讐と怨念に満ちた告発と追及を続けており、かつて外務省を「支配」したともまた「庇護」としたとも言われた鈴木は今や、外務省の人間が「敵」と明言する存在になった。

だが、非難や反対にも当の鈴木は平然たるもの。北方領土が間近に望める道東に生まれ育ち、我が国有数のロシア通である彼がライフワークと公言しては憚らない「北方領土問題」に再び手を染め得るポジションに返り咲いたことが嬉しくて仕方ないらしい。

「鳩山総理からは、北方領土を頼みますと言われている。」

と意気軒高、その一方で国政復帰以来の彼の武器である「質問主意書」をこれからも出しまくって外務省を追及すると明言しており、外務省は戦々恐々とか。

正直、鈴木の「復帰」で、この超難問が急に動き出すとは思えないのだが、吉田茂の講和独立と並ぶ戦後外交の金字塔とされる一方で、現在まで領土という禍根を残したことで、批判の声も絶えない鳩山一郎の日ソ国交回復。爺さんのやり残したことを俺が成し遂げると、鳩山が意欲を燃やすのは良くわかる。そして鈴木、鳩山そして横路もみんな北海道選出の国会議員である。この解決を望んでいない日本国民は恐らく1人もいないのだから、彼らの奮闘を期待したいが、鈴木が結局監獄入りで途中退場などというなんともバツの悪い結末にならないよう、彼の為にまずは祈るしかない。

先日実家に寄って、暇潰しに持ち出した本がある。政治評論家の鈴木棟一氏がサンデー毎日から週刊ダイヤモンドと掲載誌を替えながら、中曽根内閣当時から今日まで同時進行で書き続けている政治ドキュメント「永田町の暗闘」である。今回持って来たのは、小渕内閣スタートから小泉内閣が誕生するまでの約3年間のものだったが、読んでみて驚いた。余りにもここ数年の状況と似ていたからだ。放り出しではなかったが、短期間でコロコロと内閣が替わり、出てくる首相達の人物の矮小化、政治家としての識見のなさは国民の政治離れ、自民党離れを助長するばかりで、森喜朗が登場するに至って、そのいらだちはピークに達しつつあった。ところが、そこに小泉という救世主が現れたのが、今回との大きな違いであった。

そして、第2の小泉は果たしているのか、再生を賭けた自民党総裁選が始まった。立候補者は3人だが、ベテラン勢をバックに優勢とされる谷垣禎一、失礼ながら当方の勉強不足で名前もよく知らなかった西村なんとかさんに対して、念願の総裁選出馬を果たした河野太郎が1人目立つ展開になっている。

党内融和、全員野球を訴える他の2人に

「全員野球には反対だ。悪しき伝統を引きずった人をベンチに入れてはいけない。」

と言い放ち、森と青木幹雄を名指しで非難、引退を求めただけでなく

「今回の選挙で選挙区で議席を得られず、比例で復活された幹部の方は後進に道を譲っていただきたい。」

と事実上、伊吹文明、額賀福志郎そして町村信孝と言った派閥会長クラスにまでパージを突き付ける暴れっぷり。これを「痛快」と見るか「単なるスタンドプレー」と見るかは、人それぞれであろうが、確かに森、青木それに安倍晋三なんて連中にはもううんざりではある。

「党内野党」的その言動は、かつての小泉純一郎を彷彿とするし、また先頃引退した河野の父洋平も、若い頃は離党して新自由クラブを結成するなど、大した暴れっぷりではあった。

だが、正直なところ、自民党の「若手」と称される連中が党の体質を批判し、暴れまわるという光景は見飽きてしまっている。洋平はもちろんのこと、石破茂、笹川尭そして太田誠一なんて面々も随分吠えまくり、一旦は離党までしながら、結局はうそうそと舞い戻り、いつの間にか幹部然として振る舞った揚句、笹川、太田あるいは小坂憲次、みんないなくなってしまった。彼らのように離党まで行かなくても、党を再生だの立て直すだのわめいていた連中は随分見たが、なぜかある時期からピタリと大人しくなり、あとは順調に「自民党の政治家」としてのふさわしくなる為の階段を登って行く。筆者はこれを「自民党若手議員のはしか現象」と呼んでいる。

もちろん野党に転落した今日、今までのような「お約束」のようなことを繰り返しているわけにはいかないだろうが、先の議員総会で総裁選推薦人の数を減らそうという緊急動議にほとんど賛成者がいなかったのを見ても、なんとも前途に不安を覚えないわけにはいかない。河野のいら立ちはわからないでもないが、あまりの過激論はただ空回りして、結局はなにも生み出さないのではないだろうか。

思えば、前回自民党が野党に転落した時、渡辺美智雄を破って総裁の座に就いたのは河野洋平だった。そして渡辺の子息の喜美は一足早く自民党に愛想をつかして離党、新党「みんなの党」を結成して、選挙に臨み、意外なほどの大善戦をした。そんな渡辺に河野はラブコールを送った、共に党を再生しようと。しかし、今のところは渡辺は公務員改革の同志と見て、民主党寄りのスタンスを崩す気配はない。巨大与党となった鳩山政権の前に、野党自民党の苦悩は深い。

だが、個性的なメンツを揃え、政治を変えると意気込む民主党及び社民、国新の連立内閣も、高い理想の前に立ちふさがる現実に、思考錯誤の毎日と見える。今は政治家も、マスコミもそして我々国民も、しばし学習の時のようである。

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2009年9月17日 (木)

歴史的1日

「日本の未来は明るい。」

今日の午前中、自らが任命した17名の閣僚から辞表を取りまとめ、自らも前内閣総理大臣そして前自由民主党総裁となった麻生太郎は、退任する首相としては異例の「サヨナラ会見」を行い、国民に対する最後のメッセージと称して、こんな言葉を残して、総理官邸を去って行った。花束を贈られ、黒塗りの車に乗り込んだ麻生は、見送りに集まった国民に車内から笑顔で手を振り、とうとう最後には車から降りて、歓声に応えていた。最後までノー天気な男だと、思わず苦笑いが浮かんでしまったが、しかしこれからの自民党にとって必要なのは、実はこのノー天気さだったのかもしれない。皮肉にとられてしまうかもしれないが、今更ながら麻生が惜しくなって来た。彼は明らかに時運に恵まれなかった、出番を間違えてしまった。これもまた運命と言うしかない。

戦後の首相としては唯一の復へき(首相への返り咲き)を果たし、昭和20年代に長期政権を誇った吉田茂を飽くなき挑戦の末、引きずり下ろした鳩山一郎。そしてそれから55年後に両者の孫同士で繰り返された因縁は既にいろんなところで触れられてはいるが、とにかく16年ぶりに誕生した「非自民政権」、そして1955年の自民党結党以来、初めて自民党以外の政党が衆参両院で第1党として堂々と政権の座に就き、内閣を発足させた。8月30日同様、本日9月16日もまた、歴史に残る1日となったことは間違いない。

国会での指名を受け、正式に内閣総理大臣となり、記者会見に臨んだ鳩山由紀夫の表情は、今までとは一変、厳しいというか引き締まったものになっていた。凛々しいと言ってもいいかもしれない。その語り口も今までのなんともたどたどしいというか、ぎこちなさというものが、とりあえず影を潜め、まっすぐに我々国民に訴えかけようという姿勢にあふれていたように思う。鳩山に1番欠けていたと見える「重厚さ」、もちろんそれが首相になった途端に、急に身に付くものだとは思っていないが、「地位が人を変える」という言葉を思い出させてもらった。

新官房長官平野博文によって発表された鳩山新内閣の布陣、これについては人によって様々な評価があるのだろうが、今の民社国3党連立内閣のスタッフとしてはまぁ妥当な人選なのではないかと筆者は思っている。

菅直人副総理兼国家戦略室担当相は当初官房長官説もあり、本人も不満を抱いた時期もあったやに聞くが「雀100まで踊り忘れず」という言葉もある通り、市民運動家から政界に転じ、ついに内閣のNO2にまで上り詰めたこの人物は一言で言えば「目立ちたがり屋」。これは決して政治家菅に対する悪口ばかりではないつもりだが、しかし「イラ菅」の異名を取り、また破壊、攻撃を得意技とする菅がいわゆる「女房役」「調整役」とされる官房長官に適任とはどうしても思えないが、鳩山内閣最大の売りである「脱官僚依存」の最前線に立つのは、やはり菅が最適任ではないか(もっとも平野官房長官っていうのも華がないねぇ。華やかさが、官房長官の最大の適性資格ではないのだろうが「内閣のスポークスマン」である以上、イメージ戦略っていうのは無視はできない。町村信孝、河村建夫と2代続けて見てるだけで、気が滅入るような長官が続いただけになんとかならなかったのかなぁとは率直に思う)。

長妻昭厚生労働相は今内閣の最大の目玉人事。本人が熱望して、他ポストから入れ替わっての就任と聞くが、これは鳩山の決断だったと思う。長妻の熱血が空回りして、役所の中で浮き上がって、かえって逆効果となるとも懸念もあったようだが、それなら仰々しく「脱官僚依存」なんてお題目は最初からうたわない方がいい。4年前の大敗からの反転攻勢の大きなきっかけを作ったのは紛れもなく長妻、彼が今日の民主党政権誕生に果たした役割の大きさを思い、また彼を先頭に立てて自公政権を攻め立て続けながら、いざ政権を獲ったら、年金担当は別の人では、国民の不信を買おう。原口一博総務相と並んで、内閣のメリハリをつける存在になっていくことを期待したい。

藤井裕久財務相は久々に見た「内閣の重鎮」と呼ばれるにふさわしい存在ではないか。自民離党以来の仲だったはずの小沢一郎の横やりから入閣が危ぶまれた時期もあったようだが、鳩山が初心を貫いたのはいろいろな意味でよかったと思う。就任記者会見でも「識見」というものを政治家から感じたのも随分久しぶりのような気がした。引退予定を鳩山が、引き留めたそうだが、どうやら正解だったようだ。

秘密のアッコちゃんは全部表に出してもらうと飄々と語っていた仙谷由人行政刷新担当相は、小沢一郎に面と向かって苦言を呈する度胸を生かして、官僚機構に切り込めるか?久々の檜舞台復帰の亀井静香郵政・金融担当相はいろいろな意味で、今後台風の目となっていくだろう。

その亀井が当初就くと伝えられた防衛相。ここが民主党にとって鬼門のポストであることは周知の事実で、これを他党の亀井に丸投げはいかがなものとは思っていたら、とりあえずそれが避けられたのはまずはめでたいことだが、代わり?に登場の北沢俊美とは何者か?他にも千葉景子法相、小沢鋭仁環境相、川端達夫文部科学相あたりは逆に先行きやや不安な気配である。

当たり前のことかもしれないが、新閣僚は口ぐちに「マニュフェストの誠実な実施」と述べていたのは好感は持った。また、新閣僚が官僚の入れ知恵なしに、自らの言葉で就任会見に臨んだのも、国民の目から見れば清新に映ったのではないか。それなりの個性的なスターを揃えた以上、後問われるのは実行力そして、彼らを束ねる鳩山の首相としてのリーダーシップである。

鳩山由紀夫首相の誕生は1つの歴史であり、また感慨深い出来事ではあった。しかし感傷にひたれるのは今日まで、時間も懸案も待ってはくれない。もはや、日々がイザッ勝負!である。

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2009年9月15日 (火)

今日はとりとめなく

もはや時間の問題になっていたとは言え、イチローの立て続けの偉業達成には、改めて大きな拍手を送りたい。メジャーで9年連続200本安打って、当たり前だが、やはり常人の為せる業ではないよね。セコイ内野安打が多いとか、ガタガタ抜かす輩もいるらしいが、だったら前進守備でもなんでもして阻止してみろってんだ!

「やっと解放されましたね。」

さしものイチローもこうコメントして、半端でなかったプレッシャーを告白していたが、この記録はまだまだ伸ばせそうな気配。無人の野を行くがごとく、こうなったら後進が全く手の届かないくらいの「神の領域」まで、突き進んでもらいたいものである。

「あいつしかいないよ、こんな時くらいにしか役に立たないだろ。」

と言ってたのは筆者の弟だが、その予言通り、ババの押し付け合いの観を呈していた自民党総裁選に谷垣禎一元財務相が立候補第1号として名乗りを上げた。かつてはリーダー候補には事欠かなかったはずの自民党だったのに、いつの間にかこういう無難かもしれないが、なんとも線の細さを感じざるを得ない人材しかいなくなってしまったのか。少なくとも野党党首として、戦いの第一線に立つにしてはなんとも迫力不足だよなぁ。

当選10回の谷垣を主に派閥領袖クラスのベテランが推すのに対し、中堅若手と称される人々は石破茂や河野太郎、あるいは小野寺五典といった面々を担ごうとしているやに報道されている。今週の週刊朝日の見出しに

「森喜朗や安倍晋三なんてもう引っ込め。」

という若手議員の言葉が掲げられていた。それは確かに同感なのだが、と言って若返ればなんでもいいのかと言えば、それも疑問がある。

4年前、今と全く正反対の立場に追い込まれた民主党は岡田克也代表の後任に菅直人と前原誠司が名乗りを上げ、大接戦の末、予想を覆して若い前原が当選を果たした。中堅、若手で執行部を固め、一応お目付け役として起用したはずの鳩山由紀夫幹事長は事実上蚊帳の外に置き

「もはや鳩山、菅の時代じゃない。」

と大はしゃぎしていた結末は、わずか半年後にニセメール事件でずっこけてジ・エンド。壊滅寸前に追い込まれたかに見えた民主党を救ったのは「平成の黄門」大長老の渡部恒三であり、その後を受けて党勢立て直しに辣腕を揮ったのは小沢一郎だったのである。いたずらに世代間でいがみ合うだけでは、なにも始まらないのだということを、この反対党の顛末は教えてくれていると思うのだが、さて?

以前も書いたことがあるのだが、現日本将棋連盟会長の米長邦雄という人はつくづく「乱を好む人」だと思う。とにかく敵を作り、それと戦っていないと気が済まないらしい。大山康晴や中原誠とは盤上ではもちろんのこと、盤外でもしばしば丁々発止とやりあっていたし、それ以外にも、彼が敵とした人物や組織は枚挙にいとまがない。そして念願の将棋連盟トップの座に就いて早4年、今の彼の怨敵はLPSAと通称される「日本女子プロ将棋協会」なる組織のようだ。自らがトップを務める組織に、言わば反旗を翻す形で設立されたこの団体がどうやら米長は目ざわりで仕方ないらしく、自らのHPで攻撃するだけでは飽き足らず、今は連盟の公式HPで「真実を伝える」と称して延々といかに、LPSA側が卑劣なやり方で独立して行ったかを、喧伝しようとしている。

無論、中井広恵をトップとするLPSA側も全面的に被害者とは言い難い面が多々見受けられるが、とにかくこうなった以上、表面的な繕いや嫌がらせの延長のような提案ではなく、本気で共存していく姿勢を見せないと、最終的には自分達の首を絞めるような不幸な結果を招きかねないと思う。まずは、米長会長に大組織のトップたる度量の広さを是非見せてもらいたい、そこがスタートのような気がするのだが。

そしてもう1つ、自分達の対局は確かに大事だろうが、羽生善治以下のトップ棋士が少なくとも外から見ている限り、「我関せず」の姿勢で全く部外者のような顔をしているのもいかがなものか?連盟の運営の責任は確かに米長以下の執行部に第一義的にあるのは承知しているが、一世代上の谷川はもちろんのこと、いわゆる「羽生世代」もそろそろ「政治」に関心を示す義務はあるはずである。もっとも、今のような連盟ならいっそ壊れてしまえとでも内心思っているのなら、まぁ話は別なのですがね・・・。

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2009年9月 9日 (水)

続・自民党はどこに行く?

最初にイチロー選手のメジャーリーグ通算2000本安打達成の快挙を心から祝福いたします。長いメジャーの歴史の中でも前人未到の9年連続200本安打の偉業ももう目前、間違いなく記録にも記憶にも残る偉大なプレーヤーを、リアルタイムで見られる幸運を感謝したくなる。これからも末長い活躍を期待しています。

昨日触れた、例の自民の首班指名への対応が今日、決着した。16日の内閣総辞職に合わせて麻生太郎は自民党総裁も辞任、総裁空席のまま、衆院本会議に臨む異例の事態。そして肝心の候補は両院議員総会での1時間余りに渡る「白熱した議論=ただの、ののしり合い」の末、「両院議員総会長・若林正俊」に決した。ご記憶の方も多いだろうが、悪魔に魅入られたように起用する農水相が次々とトラブルを起こし、その度に火消し役の後任を務めた人物。「困った時の若林頼み」がとんだところでまた、発動される形になったが、決定を受けて挨拶に立った御当人は満更でもない表情だったのはご同慶の限りではある。が、再出発の門出としてはなんとも間の抜けた話であることは間違いなく、自民党落日の印象をますます深めることになった。

2年前の参院選で敗退し、第2院でとは言えついに結党以来の第1党の座を失って以降の自民党というのは、正常な判断能力を失ってしまったとしか思えない醜態を度々見せてきた。安倍の居座りを認め、また突如の投げ出しを恥じることもなく、当然のように後任を決め、それをなんとまた1年後に繰り返して、衒うこともなかった。参院で少数派になった以上、今までのように、なんでも自分達の意思通りに物事が進まなくなるのは、誰の目にも明らかなはずだったのに、民主党以下の野党の意見には全く耳を貸すそぶりも見せずに、無為な激突を繰り返し、最後は衆院での再議決というダンピラを振り回して、ただ突進していくだけ。民主党の態度に全く問題がなかったとは言わないが、自民党の側にも、与党として、情勢を打開しようという責任感も、野党の言い分も呑んでやろうという度量も全く感じさせることもなく、非難の応酬に終始する形になってしまった。

世間の非難に耳をふさいで、懸命に担ぎ出した看板がこれまたひどかった。無責任安倍、無気力福田と来て、ついに無教養・傲岸麻生という「真打ち」が登場するに至って、国民の不信は極まった。それを払拭しようとするどころか、解散直前まで内輪もめの醜態をさらし続け、いざ選挙戦になったら「責任」「安心」「実績」を臆面もなく主張し、あとはヒステリックに民主党を非難するだけ。そしてついに当然の結末を迎えたのである。

どうやら自民党の面々は最後まで、本当に自分達が選挙に負け、政権を失うという危機感を抱いていなかったとしか思えない。結局は国民が頼るべきは俺達、民主党なんかに政権を委ねる選択なんてするわけがないと、タカをくくっていたフシがある。そうでなければ、あんな出鱈目を続けられるはずもなく、もし危機感を抱いていたのだとしても、それに対する適切な対処が出来るだけの人材が、もはや自民党にはいなかったのだということになのだろう。

かくして歴史的惨敗を喫した自由民主党。しかし、彼らもいつまでも呆然としているわけにはいかない。鳩山民社国連立内閣は間もなく発足する。自分達のこれまでのやり方をことごとく否定しようとしている鳩山内閣に対して、長年日本の政治を司って来た政党としての名誉と誇りにかけて、例え数では及ばないにしても、敢然と立ち向かわなくてはならないのである。しかし、その前途は多難としか言い様がない。

その戦いにリーダーとして、最前線に立たねばならない新総裁を決めるのが、既におぼつかない。だから大事な首班指名選挙で「若林」などというみっともない投票をしなくてはならないのであるが、労多くて益少ない野党総裁を進んで引き受けようなどという奇特な人はなかなかいないらしく、今のところその意思を見せているのは、石破茂農水相と加藤紘一くらい。大本命と目された舛添要一は早々に撤退、他の総裁選出馬経験者やいわゆる派閥領袖の間からも出馬の声は上がらず、若手と称される人々からも今のところ、威勢のいい声は聞こえて来ない。実は、野党自民党を率いるに、もっとも適任と思われる方が、もうすぐ辞めなくてはならない立場にあるというのも皮肉なものである。

だいたい舛添は先の選挙で東京ブロックから比例出馬を打診されながら、けんもほろろに断っている。応援には随分駆けまわっていたらしいが、所詮は局外者の立場を崩さなかった。同じ候補者として、厳しい選挙戦を共に戦ったなら、まだ党内の支持も盛り上がったとは思うが、それをしなかったことで、既に野党に転落した自民党に見切りを付け、2年後の東京都知事選狙いとの噂もある。また1度は意欲を見せながら、森喜朗、青木幹雄と会談した直後、なにを言われたかは知らないが、慌てて出馬辞退を表明したという情報もある。ここ3代、あまりにもお粗末な首相が続いたことで、やや記憶が薄れつつあるが、その在任中の言動は決して彼らに「ひけをとることはなかった」森と参院自民党のドンと言われながら、小泉と組んで党の支持組織を破壊し、今日の惨状を作り上げた張本人とも言うべき青木が、なぜにいまだに、隠然たる力を持ち続けているのか、筆者には全く理解できない。この期に及んで、尚もキングメーカー面した彼らの暗躍を許すようなら、まぁこの党に明日はありませんな。

いずれにしても、総裁選には党所属の国会議員しか出られない以上、今更画期的な人材が浮上してくる望みは全くない。この際、推薦人20人集めなきゃ出られないなんて、アホなことは言わないで、とにかく出たい人は全部出る、それで喧々諤々の議論を徹底的にやればいい。いまや野党となった自民党の総裁が決まるのが多少時間がかかったって、あなた方がよく気にされる「政治の空白」なんて起こりませんから、どうぞご安心を(笑)。

前途多難であることは間違いない、ここまで負けては党の再建は難しいとの弱気な声も聞かれる。かくゆう筆者も「自民党はどこに行く?」などと大層なタイトルをつけてはいるが、実は「自民党はどこにも行かない」と思っている、行きようがないじゃないか。

前回、つまり94年の細川連立政権が出来、野党に転落した直後の自民党は情けなかった。与党恋しさに、党を逃げ出す輩が続出、あと1年も連立内閣が続いていたら、あの時点で自民党は終わっていただろう。しかし、今回はそんなことは起こり得ない。あの時は小選挙区制度の導入が決まっていたとはいえ、中選挙区の時代であり、党の間をうろついて、うまく立ち回ることが出来た。しかし、既に小選挙区制での選挙も5回を数え、各選挙区に2大政党の候補がほぼ立ち尽くしている。まして今回、民主党は比例復活者も含めてほとんど選挙区で立候補した面々は当選して議員になっている。そんなところへ僕を入れてくださいなんて、のこのこ行ったところで相手にされるわけがないのである。前回そして、今回とあまりにも大きな選挙結果のブレが起き、小選挙区への批判がくすぶっているが、問題のない制度などない。ようやく、2大政党制が定着しつつある我が国ではあるが、それは明らかにこの制度に拠っているのである。破廉恥な議員の右往左往や合従連衡をガードしているこの制度を導入したメリットは、今はデメリットを遥かに上回っていると筆者は評価している。

そうだ、思い出してみればいい。前回の総選挙はほぼ、これと正反対の結果が出て、自民党が大勝したのである。あれからまだ4年しか経っていないのである。悲観する必要がどこにある、居場所がなくなるなんて有り得ない。自民党の存在価値がなくなるなんて有り得ない。泣きごとを言うのは、あまりに早すぎる、あなた方を追い落とすのに、反対勢力はなんと約60年の月日を必要としたのだ。例え、野党生活が5年や10年、続いたとしたって、そんなのに音を上げるなんて甘過ぎる。

自称「先天性自民党不信論者」の筆者とて、自由民主党が日本の繁栄の為に、果たして来た役割を否定できるものではない。しかし、自民党はあまりに変わらな過ぎた、過去の自己の実績と経験にあぐらをかき、自分にとって代わる政党など現れるはずがないと安心しきって来た。しかし、根拠のない自信はついに、幻想として打ち破られた。政治家となった以上、野党になりたいと思う人はほとんどいないはずだ。まして、自民党に入党したということは、自民党が与党であるという前提で身を投じているのだろうから、この事態は全くもって不本意に違いない。しかし、ここから逃げ出す道はたぶんない、ない以上は現状を変えて、自己改革して出直すしかない。そう腹をくくって、鳩山内閣に立ち向かっていく以外に道はない。

今回の民主党の大勝は自民党の自滅が、その大きな要因であったことは間違いない。そして、いつの日か自民党の巻き返しが実現した時、その主要素が「民主党の自滅」であったとしたら、こんな国民にとって不幸はない。そう易々と反撃をくらう民主党であっても困るが、このまま自民党がいくじなく引っ込んでしまっても困るのだ。筆者は「民主党支持者」では断じてない、「政権交代実現可能な政治制度」の支持者なのだ。それが、現状2大政党制なのだとしたら、片方の党の衰退のみを期待することはできない。まずは総裁選がどういう経緯をたどって行くのか、注目である。

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2009年9月 8日 (火)

自民党はどこに行く?

そのニュースを聞いた時は思わず耳を疑ってしまった。

「自民党、新総裁選出が間に合わず、16日の特別国会での首班指名選挙で麻生現総裁に投票」

ギャグにしては相当センスが悪いなと思ったら、どうやら本気だったらしい。あまりの惨敗についに頭に来たのかと、唖然として眺めていたら、さすがにあまりにみっともないということに気づいた連中がいたらしく、総務会では反対が相次ぎ、それでも一旦は執行部は押し切ったものの、結局はこの件が沙汰やみになったのは、自民党の為には大変喜ばしいことではあった。

が、事はそれでは終わらない。じゃあ誰に投票するのだ、という問題が残る。幹事長説が麻生に投票するのとなにが違うんだと一蹴されてしまうと後は百家争鳴と言えば、まだ聞こえがいいが、要は誰にも妙案はなく、加藤紘一の総裁選挙管理委員長案という奇説が鼻で笑われるに至って、ついに出た結論が「白紙投票」・・・。いやはや前途は多難である。

それにしても自民党支持者や苦杯をなめた多くの自民党衆院選候補者達がやりきれなかっただろうと思うのは、自分達をここまでの苦境に陥れた張本人とも言える連中が、結局は続々と生き延びてしまったことではないか。「一将なって万骨枯る」という言葉を地で行くような結末であった。

麻生太郎は選挙後の会見やインタビューで今回の歴史的惨敗について

「積年の自民党に対する不満を払拭することができなかった。」

と繰り返した。そこにはこれは俺だけのせいじゃねぇよ、という麻生の自己弁護が思いが多分に含まれてはいるのだが、しかしそれは全くその通りである。

麻生の言う「積年」がどのくらい前からのことを指しているかは定かではないが、少なくとも4年前の郵政選挙での大勝以降、自民党は公明党と組んで、特に参院選で敗北してからこの2年の間、大袈裟でなく「神をも恐れぬ所業」を繰り返して来た。今日の事態を迎えたのは、全く持って自民党自らが招いたものであり、そこには一片の同情を寄せる余地もない。

4年前、小泉純一郎のワンフレーズに酔って、踊った有権者にも問題はあったのだが、その大勝を背景に小泉がやったことは、先に廃案となった郵政民営化4法案の復活、可決だけであり、それが選挙後1ヵ月でほぽ片が付くと、あとは腑抜けのようになって1年を過ごし、自民党総裁の任期切れを理由に退陣して行った。

それはそれで、潔い去り方と言えなくはなかったが、あれだけの国民の支持を得ながら、早々に政権の座を去るというのは、無責任とも言えた。そして、重大なのは小泉の成功を実感した自民党は

「総裁には『選挙の顔』となるべき、すなわち国民の人気の高い人物を担ぐに限る。」

という大きな錯誤を抱くこととなった。ポスト小泉の総裁レースが、早々に安倍晋三の独走となったのは、ひとえに安倍の人気にすがって、いや利用して次の選挙も楽々と勝ち抜けたいという議員のさもしい根性の賜物に他ならない。そこにはその人物の首相としての適性や資質など、全く議論の対象にもならなかった。

人気と実力は決してイコールではない。若さへの期待が、やがて実力と修練不足の馬脚を現し、失望に変わっていくのに、さほど時間は要さなかった。選挙の顔として擁立されたはずの安倍の言動が明らかなマイナス要素になって、敗退した07年夏の参院選以降の自民党は、あたかもブレーキの壊れた暴走機関車の様相を呈した。

すべての始まりは、安倍の厚顔無恥な居座りにあった。その居座りを自民党の多くが容認した。それだけならまだしも、その居座りを強行した当の本人が、わずか1ヵ月余りで理由にもならない理由をあげて、政権を放り出したのである。そしてそんな人物が今年に入って、恥ずかしげもなく「勝手に復権し」、いや勝手にそう思い込み、麻生のアドバイザー面して、また永田町を闊歩し始めた。どの面下げて、国民はそう思ったし、また自民党の議員の多くもそう感じたはずだと思うのだが、しかしそんな安倍に対して諫言を行う人物すらついに現れなかった。

にも関わらず、安倍その人は、全国的自民党大敗の中、悠々と当選を果たした。後を襲って、これまた自民不信に拍車をかけただけに終わった福田康夫も、彼らを総裁そして首相に送り込んで、キングメーカー面して自民党を牛耳っていた森喜朗も民主党女性候補の猛追をかわして当選した。苦戦を伝えられた古賀誠も生き残り、小選挙区では落選した他の何人かの「派閥領袖」達も、結局は比例で復活してしまった。

「手痛い敗北を喫した軍隊でも、結果、無能な将軍共が一掃され、有為な若手によって再建されることは多々ある。」

選挙戦中、自民党苦戦の評にこう述べていたのは軍事評論家の田岡俊次氏だが、皮肉にも一掃されたのは「有為な(?)若手」の方であり、「無能な将軍」達は尚、全く懲りることなく、自民党の「再建」に奔走すべく意欲満々の様子である。まさに「最悪のシナリオ」と言ったところではないか。

というところで、続きはまた改めて。

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2009年9月 7日 (月)

ミスター幹事長?・・・

三木武吉という大正から昭和20年代にかけて活躍した政治家がいた。敗れたりとは言え、絶大な権力を誇った東条内閣に敢然と立ち向かった、硬骨の言論人であったが、彼の真骨頂はむしろ戦後、鳩山一郎を擁して、ワンマンと称され政界に君臨していた吉田茂をついに引きずり下ろした一連の攻防に発揮された。そしてなによりも、特筆すべきは戦前から対立を続けた保守陣営の大同団結を成し遂げ、単一の強大な保守政党を立ち上げた事実上の立役者だったことである。そう、今の自由民主党の生みの親なのである。

その三木の政治家としての歩みには大きな特徴がある。多くの時間を野党、在野で過ごしたこともあるが、彼が政府の役職に就いたのは、その長い政治家人生の中で、大蔵参与官というポストを1年ほど務めただけで、あとは一貫して党の役職のみにその経歴が偏っていることである。根っからの黒子、裏方向きの政治家だったのだろう。

そんな三木の生き方を彷彿とさせる政治家が現代にもいる、小沢一郎である。元々自民党所属だった小沢は、ごく普通の自民党議員がたどる出世コースを歩み、科学技術政務次官、建設政務次官を務めたあと、85年に中曽根内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣を果たしており、この点生涯大臣ポストに縁のなかった三木とは違うのだが、以来もう24年の長きに渡って、政府に入っていないというのは、「実力者」と称される政治家の歩みとしては異例である。逆に自民党を皮切りに渡り歩いた5つの政党のうち、なんと4つの政党で「幹事長」なるポストに就いている(新生党では「代表幹事」、また民主党では現在のところ「就任予定」だが)。これは間違いなくレコードであり、今後も破られることはまずないだろう。もっともそれが誇るべきものかどうかはまた別問題になるのだが・・・。

戦前の政友ー民生の対立を引きずり、更に吉田ー鳩山の角逐でその根が一層深まっていた保守2党を、丹念に説得してまとめ上げた三木に対して、小沢の歩みは全く逆。所属していた竹下派を分裂させたのを皮切りに、自民党を飛び出してからも、政党を作っては壊しを飽きもせず繰り返し、付いた異名が「壊し屋」。

政権可能な2大政党制を作るということは、確かに竹下派NO2の時代から言い続けてはいるが、とすると自民党を今日まで延命させる決定打となった自自連立(自民党と彼がかつて率いていた自由党との連立、これを先駆けとして自民党は更に公明党を与党に引き込むことに成功、以来いわゆる『自公政権』がつい先ごろまで日本の政界を牛耳っていたことは今更言うまでもない)とは一体なんだったのか?

小沢という政治家の存在が、国民から見て、なんとなく胡散臭く、またやりきれないのは、彼が一体何を目指しているのか、見えてこないことにある。93年に彼が自民党を離党した直後には、それなりの主義主張を述べ、それに対する喧々諤々の論議も巻き起こったものであるが、今日、その主張の多くを小沢は引っ込めた・・・とは言わないが、声高に主張することはなくなってしまった。

また、彼が意識的に政府に入ることを避けているように見えるのも、彼のイメージを悪くしていることは否めない。自民党離党以来、意に反して、多くの時間を野党生活に費やさざるを得なかった小沢だが、それでも細川内閣でも自自連立の時でも、小沢が望めば、内閣に入ることは容易だったはずだ。もっとも小沢にも言い分はあろう、自分が内閣に入れる状況ではなかったと。

そういう意味では、あの西松事件というのはかえすがえすも残念であった。あの事件が起こらなければ、今、首相になろうとしているのは間違いなく小沢だったはずだ。国政のトップに立った小沢が、何を語り、なにを為そうとするのか、それを見た時に初めて小沢一郎なる政治家の正体が白日の下にさらされたはずだった。小沢が民主党代表を辞した時、筆者は「さらば剛腕」なる文を書いて、小沢がもはや過去の政治家になったと記した。ところが、それはとんでもない浅はかな見方であり、小沢はどうやら尚も与党有数の実力者として、永田町を民主党を闊歩し続けていくようだ。しかし、「内閣総理大臣候補者」としての小沢はやはり、もう甦ることはない。

先月30日の開票速報番組で幹事長岡田克也を差し置いて、まずテレビに登場したのが小沢だったことに筆者は正直驚いた。選挙対策担当の代表代行だからということらしかったが、代表として戦った2年前の参院選後の開票番組にも登場しなかった男が、どういう風の吹きまわしかと思ったが、インタビュアーの問いに、実も蓋もないような返答を繰り返し、一体なにをしに出てきたのか首をひねらされたまま、すぐに姿を消してしまったのには、苦笑いを禁じえなかった。

小沢の行くところには、常に摩擦が生じる。熱狂的な味方がいる一方、小沢は許せないとばかりに公然と敵視する勢力も枚挙にいとまがないくらいに存在する。味方からは絶大なる信頼、支持を受ける一方で、敵からは異常なほどに畏怖される。その存在感は他の追随を全く許さず、まもなく首相になる鳩山由紀夫ですら、遠く及ばない。

今回の政権交代、民主党圧勝の立役者は鳩山ではなく、小沢なのだという。前回の郵政選挙で国民の多くは小泉純一郎の言動に酔いしれ、自民党に票を入れた。「自民党が勝ったのではない、小泉が勝ったのだ」という評は全く的確であった。今回の選挙結果がそれをいみじくも証明することになった。が今回の民主党の大勝に鳩山の影響力を見る人は少ない。自民党ノーという民意を的確にとらえ、コツコツと候補者擁立に力を注ぎ、政権交代への風を漏らさず受け止めることを成功させた小沢こそが、立役者なのだという評はうなづけなくもない。

小沢はずっと繰り返してきた。

「政権交代の実現こそが、私の政治家としての悲願。」

そして政権交代は実現した。その新しい政権下で小沢はなにを目指し、そして自らはなにをしようとしているのか?

選挙直後、問われて

「政権交代は私の悲願だった。それが実現した以上、私の望むものは何もない。」

と答えながらも、少したつと鳩山が何も言ってこないと周囲に不満を漏らしたという。そして鳩山から幹事長就任を要請された小沢は、上機嫌で記者団の前に現れたそうだ。

小沢の幹事長就任が報道されるやいなや、自民党は浮足立った。敵が浮足立つのはまだいいのだが、マスコミには「小沢支配」の文字が踊り、民主党内までもがざわめき出した。

「小沢に党を乗っ取られる!」

そう叫んだ民主党議員がいたそうだ。いやはやと思わざるを得ないが、実は、小沢の自民党離党以来の行動で手痛い目にあった経験があるのは自民党ではなく、実は民主党内の方に多くいるというのは皮肉な事実ではある。

その筆頭が誰あろう鳩山由紀夫その人で、小沢が新生党代表幹事として、「与党代表者会議」なるのを事実上主宰して、政府を引きずりまわし、結果的に連立内閣を崩壊させてしまった時、内閣官房副長官として鳩山はその姿を苦々しく眺めていた。鳩山や菅直人ら当時の新党さきがけが、羽田内閣誕生の際に閣外に転じ、事実上連立から離脱してしまったのは、そうした小沢に対する嫌悪感からであった。

そして鳩山は小沢に幹事長就任を要請するに当たって、こう述べたと言う。

「政府のことに関しては私がやります。党務に関しては、幹事長にしっかりやっていただきたい。」

これに対して、小沢は了承すると共に、政策には口を出さないと明言したと伝えられる。細川、羽田政権下でのいわゆる「二重権力」体制の再現だけは、絶対に阻止するという鳩山の強い意志を感じるし、また「脱官僚」と表裏一体の「官邸主導、政治主導」体制は民主党新政権の1枚看板でもある。

それが、言葉通り行くのか、機能するのかということはとりあえず置こう。政策決定の場から外され、小沢は一体なにを目的に、そしてなにをして行こうというのだろう。党、国会の人事を行い、そして来月に迫った2つの補選を皮切りに、もう1年を切った次期参院選の勝利の為に骨を折っていくのだろうが、何のために、小沢はそれに邁進していくのだろうか。新しい政治を根付かせる為の下働きを買って出るというのだろうか、それとも参院選に勝って、単独で両院の多数を握った暁には、いよいよ腹案の実現に動き出すというのか・・・その意図を知る人はいるのだろうか?

岡田克也は著書でこう書いている。

「細川、羽田連立内閣を短命に終わらせた最大の要因は最大実力者であった小沢一郎さんが閣内に入らなかったことだ。」

菅直人は選挙戦のある時期まで、こう主張し続けていた。

「幹事長を含む党役員がすべて閣内に入らなければ、政治主導の体制はとれない。」

一方、鳩山由紀夫は一貫して幹事長は閣内に入らず、党務に専念させると言って来た。西松問題を抱え、入閣は難しいと見られる小沢の幹事長起用を念頭に置いた発言であったことは言うまでもない。

そして党内の不安とか細い反対の声を尻目に、小沢は念願の(恐らく)幹事長ポストに就くことになった。小沢の一挙手一投足にいちいち、すわっと過剰反応するのはどうかとは思う。しかし、突如として大連立に動き出すなど小沢の「高邁な政治哲学と行動」はあまりにも唐突で理解に苦しむことがあると国民にも、また多くの政治家にも映るだけに、その行き先や言動にはなはだしい不安を感じてしまうのも無理からぬところかもしれない。ただ小沢の顔色を伺いながらの政権運営では、先は知れている。まさかかつての過ちを鳩山が、そして小沢その人も繰り返すとは思いたくはないのだが・・・。

骨格が続々内定を伝えられる鳩山新体制。意外と誰も指摘しないのだが、注目は法相ポストではないだろうか。小沢の西松問題に、鳩山の献金問題を抱え、明らかに民主党に敵対しようとしている検察を統括する法相に誰を置くかは、なかなかデリケートでシビアな人選を強いられるのではないか。かつて田中角栄は自分の裁判を少しでも優位に運ぼうと、息のかかった政治家を続々と法相に送り込んで顰蹙を買ったが、鳩山にそこまでの度胸・・・いや破廉恥さはないだろう。仙谷由人、あるいは社民党の福島瑞穂党首あたりはいかがかと思うが、さて?

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2009年9月 2日 (水)

望むことはただ1つ、すべてをオープンに!!

8月30日の深夜に開票速報を見ながら、更新するつもりだったのだが、正直、あっけにとられたまま、テレビを見続けるだけに終わってしまった。そして今、パソコンの前に座って、書きたいことはたくさんあるはずなのに、なにから書いていいかわからない。未だに興奮状態から醒めていない自分がいるらしい。

昨年9月、早いものでもう1年前の話になるが、麻生太郎が颯爽と(?)と自民党総裁として登場し、衆院を解散する構えを見せた時、正直アホめと思った。いや2度の破廉恥な政権投げ出しを末に登場した麻生に解散先送りなど、許されないとは思っていたが、しかし自民党の立場で言えば、あの時点で解散するなど無謀としか思えなかった。自民党の支持率も、内閣の支持率も今にして思えば、夢のように高かった。それでもいざ選挙になれば、民主党の圧勝だったろう。それが小選挙区選挙の恐ろしさなのだ。それに気づいたのか、麻生は一転、選挙を引っ張りにかかった、時間を稼ぎ、敵失を待つ以外の方策がもはやなかったからである。民主党が、その無策の策をついに、打ち破ることができなかったにも関わらず、結局西松問題という絶好のチャンスもあたら見逃してしまった麻生と自民党は、時間に迫られ、とうとうやけっぱちとも言える解散に打って出るしかなくなってしまった。

それでも解散から投票日までたっぷりとった日程は、有権者の反自民の熱を冷ますのに十分な時間に思えた。天災、有名タレントの薬物騒動、そしてお盆・・・。郵政選挙一色の報道だった4年前とは打って変わって、テレビも静かなものだった。その上、選挙戦突入後、各マスコミに踊った民主圧勝、300超えの報道。有権者は政権交代に土壇場で躊躇し、投票率はせいぜい50%代半ば、民主は270まで取れれば上等というのが、筆者の見立てだった。ところが・・・投票率は前回をも上回り、事前予測通り、民主は文字通りの圧勝を果たした。自分だけが「憂国の士」とまでうぬぼれていたつもりはないが、筆者は少々思い上がっていたようである。

このブログを始めて約2年半、政権交代をすべきとバカの1つ覚えのように繰り返して来た。いや、それ以前からこの国の前途の為には、それしか道はないと、偉そうな言い方をすれば「信念」を持っていた。89年

「山が動いた。」

という名言を吐いた時の土井たか子の輝いた表情を筆者は忘れることができない。しかし、土井の至言は残念ながら幻だった。4年後、永久与党としか思えなかった自民党をなんとか引きずり下ろした時、ようやく新しい時代の扉が開かれたと思った。にも関わらず、引きずり下ろしたはずの側の滅びはあっけなかった。それからまた、15年の月日が流れた。

どう見ても、自由民主党という政党の役割も、賞味期限も終わっているとしか思えなかった。しかし、結党以来、実に半世紀以上に渡って、政権をほぼ独占し続ける自民党の牙城は堅固そのものだった。更にその自民党をなぜか誠実に下支えし続ける公明党、創価学会とのタッグはほとんど無敵にも見えた。これを打ち破る方法があるとしたら、それは投票率を上げて、学会の恐ろしく強固な組織票を効かなくする以外にないのだが、それにも有効な手段が見当たらなかった。お手上げ・・・としか思えない時が続いた。

そんな「敵」のほころびが見えたのは2年前、参院選で自公は大敗を喫し、過半数を失った。奇才小泉純一郎を擁して、わが世の春を謳歌したのもつかの間、その小泉が去ってみると、人材の払底は覆い隠すべくもなくなっていた。以降の迷走ぶりは今更繰り返すまでもない。

そして、ついに日本国民は事実上初めて、自らの手による政権交代を実現させた。今までは、首相が退陣しても、後継を選んできたのは与党の中枢に座る自民党であり、その都合、お家事情がすべてに優先されていた。しかし、今回、一政党のそんな勝手な思惑は全く入り込む余地もなく

「あんたはクビ、代わってこの人。」

と国民が明確に意思表示をしたのだ。随分遠回りだったが、こうして2009年8月30日という日は、日本の歴史に間違いなく刻まれる日となった。

今日を迎えられた最大の要因が、1994年に導入された小選挙区制度にあることはまず、疑う余地はない。この制度に引きずられて、ようやく日本は2大政党制、すなわち政権交代可能な政治制度にたどりつくことができた。今まで、一方的に与党である自民党に集中してきた人材が、この制度によって分散せざるを得ない状況となった。民主党というとにもかくにも、自民党にとって替われそうな政党を15年かけてようやっと育て上げたのが、この小選挙区制度だったのである。そして、極めて大雑把に言えば、今の民主党にはかつて、政治改革の名の下にこの制度導入を推進した勢力が拠り、自民党にはそれに反対した勢力が集っていた。「政治改革派」の悲願は15年の時を経て、ついに結実したとも言える。

来る16日には国会の首班指名選挙を経て、鳩山由紀夫が内閣総理大臣に指名され、恐らく社民、国民新両党との連立による民主党政権が誕生することになる。現憲法下において、全く閣僚経験のないままに、首相の座に就くのは戦後間もない片山哲を除いても、細川護熙、村山富市に続く3人目、経験不足は否めないし、片山を含めてすべて連立内閣の首班、全員お世辞にも長期政権だったとは言い難い。

正直言って、鳩山が首相になるなんてほんの数ヶ月まで、考えてみたこともなかった。「リーダー」というなら、小沢一郎や菅直人の方が、遥かにリーダーシップを感じさせるし、政策能力という面なら岡田克也の足元にも及ぶまい。かつて安倍晋三や福田康夫にも投げかけた言葉だか、彼がもし鳩山一族の4代目でなかったら、果たして宰相の印綬を帯びることができただろうか?

だが、鳩山には彼らにはない勲章がある。それは今のままでは、日本の政治はどうしようもないと、2大政党制を志し、その実現の為に、敢然と野党にその身を投じたことである、それも2度までだ。これも前に書いたことがあるが、鳩山はあのまま自民党に留まっていれば、麻生や安倍のような道を歩み得た存在であった。にも関わらず、それを振り捨てて、困難な道を選択した政治家としての勇気と愚直さには素直に感服するしかない。鳩山の決断がなければ、今日の事態が来るのはもっともっと先になっていた可能性は極めて高い。

その勇気と決断を今度は、内閣総理大臣として是非見せてもらいたい。残念ながら、鳩山政権の前途は決して揚々たるものではないだろう。いささか大風呂敷を広げ過ぎた感のあるマニュフェスト、そして自身の「故人献金」に端を発した政治資金不正疑惑というアキレス腱も抱えている。自民党が解散を引っ張りに引っ張った結果、次の参院選までもう10ヵ月しかなくなってしまった。そこまでにある程度の目に見える成果を上げなくてはという焦りもあるだろう。

やっと手に入れた政権、当然抱負も使命感もあるはずだ。しかし、欲張っても時間には限りがある。とりあえず、鳩山民主党政権の為すべきことは1つしかない。それはタイトルにも書いたように

「すべてものをオープンにする。」

それしかないと思う。長年政権を独占し続けた自民党内閣の下で、一体どんな政治が、政権運営が行われて来たのか、それをいわゆる国家機密と言われる事項以外は悪いことも、いいことも、すべて国民の前にオープンにして開示する。税金の使い方しかり、政策決定のプロセスしかり、そして外交交渉しかりである。それなくして、政権交代を実現し、自民党を与党から放逐した意味などないと言って、全く差し支えないないだろう。無論、そこには反対も抵抗もあるだろうし、開示するには勇気のいることもあるだろう。それでもあれだけの国民の支持を受けて、発足する政権なのである。是非、前を向いて、進んで行ってもらいたい。鳩山新首相並びに民主党政権の「勇気」と「愚直さ」に期待したい。

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